■PAPUWAで、シンタローの不在をいい事に出戻った高松ですが。ミヤギ達が「キンタローのために戻って来た」と思っているのが好きです。
高松って、好きな事させておかないとダメな人なのかもしれません。マジックの放任主義が見て取れますが、シンタローの理想主義とは肌が合いにくいかもしれません。シンタローは実績とか結果より、メンタルの方を重要視しそうです。アラシヤマが最も不得手な方向性。
■「心のバランスが崩れた」という言い回しがありますが、南国の高松の心の中は、相当難しいバランスだったのではと思います。シンタローがマジックの寵愛の下、次期総帥として安泰なら、高松は嬰児交換に悔いを感じなかったと思います。でもコタの誕生で、シンタローの気持ちのバランスが崩れ、マジックも素の冷酷さを隠せなくなりました。
グンマに対しても、「小さい頃僕を可愛がってくれた、死んだお父さんの部下」で十分だったのに、思いのほか高松は任務や事故で死なず、24年も嘘をつく事になりました。
バランスとか上っ面の安泰はもうよくて。好きな事好きなだけしたら、「バランスが崩れた」とか思わなくなるかもしれません。本当のルーザー様の息子の泣き顔を見て、頭の中が滅茶苦茶になった高松の選んだ事が、自白と開き直りだったと思うと、彼らしいなと思います。
本来高松は、腹立たしいくらい図々しくていいと思います。「グンマ様に好かれねばならない」とか思っていたとしたら、免疫力が下がりそうなくらい苦しいと思います。
■明治大正期の日本と、父母義父母、兄弟、奥さん親類子供達、全てを敵視している様な漱石ですが。あんなに自分の事を赤裸々に書いて大丈夫だったのかと今更思いました。いつも漱石が攻撃の対象にする「妻」「既婚女性」「女」である鏡子さんは、弟子達に「先生を苦しめる悪妻」と身に覚えのない嫌味を言われそうです。
今の作家さんでも自分の周囲をテーマにして書く事はありますが、漱石の道草の場合、容赦なく義父母がモデルだろうと思われる人達を攻撃しています。攻撃と言うか分析と言うか、どう書いたら自分の心の中から出ていってくれるのか悩んでいる感じがします。
漱石と言えば則天去私で。若い頃から、日英の文化の違い、日本の中でも古今の価値観の違い、男女の性差による夫婦不一致の悲しみ等、嘆きまくっているけれど、後年則天去私と言う究極の境地にたどり着いた、と漱石はされます。
作品を読んでいると、どうもそういう平和な境地に漱石が辿り着いたとは思えません。明暗の延子は、温泉場に津田を追いかけて行って足を滑らせて流産、その上津田の浮気を知り、妻にも死んでしまった子供も、津田にはどうでもいいのだとい事実を突きつけられるそうですが、そこに安穏はありません。
延子がもし穏やかな気持ちになった所で。「津田は冷たい嫌な男だ」という事実は変わりません。明暗の世界の向こうには則天去私の楽園があると弟子達は言ったかもしれませんが自分はそう思いません。硝子戸の中で言ったように、全ては「継続中」なのかもしれません。 |
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