■季節柄、自衛隊関連の夏祭りのポスターを目にしました。パプワ世界でも「お祭り」は多々ありますが、自衛隊他の場合は、地域との交流や、関心のある人へ内部を公開するのが目的だと思います。
ガンマ団の場合。国家に必要な三要素、主権・領土・国民がなく、単なる私企業であるため、巨大軍事組織である事への弁護が非常にしにくいです。
主権−総帥だけにしかない 株式総会も多分ない 領土−総帥名義の固定資産のみ 国民−利益に預かる総帥一族と、使用人しかいない
ガンマ団が青の一族の経営する私企業であるのに、何の問題もありません。ただ、一族の利益にそれ程預からず、高松程の野心のない幼いグンマをどっかの基地を見学させた場合、彼は興味を持たない気がします。
ルーザー様が生きている場合のキンちゃんなら。「お父様の艦だ」とか「高松がオペをした病院だ」とか、我知らず興味を持つでしょう。親しい人と無骨な軍備が、彼の中では繋がるのではないかと思います。
危険極まりない数々の軍備を見て。親しい人達を思い浮かべるキンちゃんが幸せなのか。基地を案内してくれる高松に気が付かれない程度に、関心を装えるグンマが幸せなのか。
■変わらず康成を読んでます。短編集なので、次から次へと奇怪な内容が飛び出して来ます。
同じ短編でも、漱石の夢十夜よりは陰惨でないと解説にありましたが、夢十夜の陰惨さは漱石にしてはライトの様に思えます。漱石の陰惨さはむしろ、日常の描写の方に濃い気がします。
漱石の陰惨さは、望んで一緒になった新婚夫婦なのに、強い不信感をお互いに走らせている津田達。門の、この上ない穏やかな日常を生きているはずの宗助とお米なのに、寄席を楽しむお米と心が一つになれない宗助の「普通の」孤独にあるのではと思います。目に見えて陰惨な描写なら、漱石にしては朗らかと言えるのではと。
自分は康成にも日文にも門外漢です。ただ、康成は小さい頃や若い頃の辛い事、悲しい事をじっと記憶した様で、何だかわかる様な、自分も忘れたい嫌な事を忘れられないまま、この先生きるのかと少し滅入ります。
■オースティンのエマについて、考えていました。エマは「好かれない女性」として書いたそうですが、劇中で彼女は人気者です。若くて明るい美人で、社交的で父親思いの娘さんです。
欠点と言えば、思い込みが強い事くらいです。自分は「結婚しない」と周囲に宣言し、周囲の身分の低い男女の縁組に熱心になっています。もっとも、所詮うら若い女性の考える「お見合い」なので、大体失敗しています。
かといえば、ほとんど自然に決まった様な結婚だった、ミス・テーラーの幸せを「自分が結ばせた」と自負するおかしな部分もあります。全ては世間知らずな娘さんの、可愛い失敗談と思えなくありません。それほどエマは皆に愛され、崇拝されている女性です。
問題は何故オースティンが、好かれない「女性」を書こうとしたかです。エマ以外にも、いつも大胆不敵な女性キャラとしてエルトン夫人や、高慢と偏見のキャサリン令夫人、マンスフィールドパークのノリス夫人と、男性顔負けの御婦人は大勢あります。
女性であるオースティンには、同性の方が書きやすかったのかもしれません。当時はやはり男尊女卑の世界であるし、男性を嘲笑するより、女性を皮肉った方が安全だったのかもしれません。
オースティンも男性を滑稽に書かない訳ではありませんが、やはり彼女の作家活動を一番に応援していたのが、確か母ではなく、兄達だったせいもあるのだろうと思います。尊敬できる男性に囲まれて、彼女はものを書いていたのかもしれません。
康成や谷崎の場合、悲惨な女性、滑稽な女性、悪鬼の様な女性を書く事はあっても、男性は常に傍観者です。オースティンの小説には傍観者はなく、常に語り部は遙上にいるのが救いに思えます。多分語り部は女性、オースティン本人なのでしょう。 |
|