■連日スパークについての自分の失態(申込みさえできなかった)について、わめいていて申し訳ありません。受かれば冬コミ、そして春コミプチに向けて頑張ります。
■康成の千羽鶴と言えばちか子の胸のアザ、谷崎の細雪と言えば雪子の目のふちのシミでしょうか。いずれも彼女達を、縁遠くしている原因であると作中でされます。
主要な男性達の容姿について触れられる事は滅多にありません。彼等が語り手であり審判者であるからでしょう。読んでいてイラッとしなくないというか、大抵の女性の体にはシミもアザもあるんじゃないかと思います。
■古今、親の真似をして幸せになる人はいない様に思います。親の仕事を継ぐとか、似た様な職業に就くとか、親を永劫に想起させる将来を選ぶ事はあっても、幻夜の様な無理解に走るか、ヒカ碁のアキラの様に父親の事なんて忘れて一心になれる相手を得るか、色々でしょう。
源氏は桐壺帝を真似ました。性欲を持って藤壺、紫の上を追い回せば、本来彼女達を愛さねばならない桐壺帝、紫の上の父君は困ってしまいます。また彼女達も、しつこくて異常に女運のいい源氏を追い払うのは至難です。
結果、父の女である桐壺更衣の面影を都じゅう探し回った源氏は、関係した女性達をことごとく不幸にしました。父の真似なんかしなければいいのに、源氏にはそれしか生き甲斐がなかった様です。
キンちゃんもルーザー様の真似をすれば、不幸になる可能性が出て来ます。ただしもう真似るとしても、お手本はありません。高松の内面にいるルーザー様、伯父達の知っているルーザー様は既に別人でしょう。
キンちゃんを不幸にしないために、高松はギリギリまで自分のよしとするものをキンちゃんに与えた後は、彼から離れたのだろうと思います。
高松はルーザー様を置いて行った結果になったけれど、キンちゃんがキンちゃんであり、ルーザー様ご自身ではないのなら、いつか自分を呼び戻してくれるだろう楽観が、高松にあった気がします。
■千羽鶴、波千鳥について考えていました。
くたびれきった男が、清らかな娘さんに出会って癒される話と言うと、伊豆の踊子を思い出します。踊子は職業柄、不特定多数の男性を相手にせざるを得ない立場だそうで、主人公は旅芸人の一座に心を寄せながら、踊子の節操について考えています。
主人公の視線を跳ね返す様に、踊子はすっ裸で川岸の温泉から飛び出て、手を振りました。家族と過ごす時間が多いせいで彼女に警戒心が薄いのか、彼女は本当に幼女みたいなものだったのか分かりませんが、主人公は踊子が処女である事を確信し、心の平安を得ます。
同じ事が波千鳥にも起きます。菊治は妻でありながら未だに処女であるゆき子を愛でています。置物の様に愛らしく、妻であるおままごとをゆき子はあっけらかんにこなしています。
夫でありながら夫に非ず、妻でありながら妻ではない関係に、菊治は一定の救済を得ます。大田未亡人や文子と距離が出来たことからの一事の安寧に過ぎず、ゆき子の処女ぶりは完璧過ぎて、康成らしいカタストロフィーを予感させます。
菊治と文子は愛欲のまま死を選ぶにしても、ゆき子が負うだろう心の傷を思うと康成は筆が運べず、未完になったとか聞いて、嘘かまことか自分は納得しました。 |
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