■ルザ高は、劇中で何の補正も訳注もない事から、本当に何もなかったんじゃないかという当然の妄想の帰結から、高松の長期にわたる彼への思慕を思えば、相当の関係だったのかという、まさに腕のないミロのヴィーナスか、頭部を失ったサモトラケのニケの様な扱いです(自分の中では)。
全てが分からないから魅力なのか、高松にしてみれば、例えルーザー様の全てが分かったとしても、やはり彼に魅力を感じたのかもしれません。全て妄想だったとしても、そういう高松の暑苦しさが好きです。
そんな高松に困るのはグンマとキンちゃんでしょう。一番長く高松の注意を引いたのは何と言っても「キンタロー」であったシンタローだとしても、シンタローにとって高松は左程重要な男ではありません。
高松の暑苦しさの最大の被害者はグンマです。グンマは高松にアイドル視されたから不幸なのではなく、本当に高松が愛していた、愛している人の煙幕にされたから不幸です。煙幕の向こうにいるのは亡くなったルーザー様であり、その息子のキンちゃんに他なりません。
高松に土下座させても、グンマは心が休まらないと思います。無論高松はグンマに謝罪の土下座をするでしょうが、絵柄的に「青の一族に目下が土下座する」光景はガンマ団内で実に普通です。普通じゃないのは、同じ青の一族のキンちゃんが「その辺にしておけ」とグンマに言いそうな事でしょう。
キンちゃんにとっても、リアルに感じられるのは父のくれた遺伝子と、高松が移してくれる熱情であるなら、グンマの怒りや憎しみは煙の様であり、従兄弟として想像するよりないのかなと思います。
■一人の作家の本を読むと、数冊続けて同じ人の本を読む事があります。読んだ作品の続編や、プロローグとされる作品があると知ると、嬉々としてそちらも読みます。
井上靖と言えば、敦煌や天平の甍のイメージが強かったのですが、先日やっとあすなろ物語を読みました。題名だけはずっと前に聞いていました。敦煌を書く人が、国内を舞台にした物語を書くなんて、まったく想像出来ませんでした。
自分の今回のキーワードは温泉で、敦煌や楼蘭、孔子の様な砂塵のヒリヒリした感触のイメージは忘れていました。湯ヶ島ののびのびした光景が好ましかったです。
実際は好ましいというか、もししろばんばのおぬい婆さんに味方がいれば、「落魄した元軍医の妾にされ不幸である」と誰かが言ってくれたのかもしれません。しろばんばでは、洪作とおぬい婆さんの狭い暮らしが主な舞台なので、洪作の感じ得ないドロドロとしたものが表に出てくる事は稀でした。
しろばんばのあのユートピア感は、洪作の年齢によるものだったのかもしれません。男女一緒に風呂に入っても左程うるさくない年齢、学校もずるけなければどうにかなる初等の段階、洪作の父も母も遠方にいるというだけで達者だと言う、奇跡的な時間だったのかもしれません。
洪作はいずれ学業のためか、洪作自身の成長のために、死以外でもおぬいと別れる日が来ただろうと思います。それでも、あんなに描写が繊細かつ力のある描写こそ、おぬい婆さんが洪作の義祖父と過ごした、湯ヶ島と言う場所を語るにたるものだったのかもしれないと思いました。 |
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