madeingermany

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...... 2016年09月28日 の日記 ......
■ 出発編   [ NO. 2016092801-1 ]

■グンマと言うと、シンタロー総帥、キンタロー補佐官の存在に隠れて、おうちで発明に勤しんでいるイメージがありますが、仮に実際そうだとしても、グンマは彼等よりある面で大人である気がします。

シンタローとキンちゃんでは、メンタルが似過ぎていて、多分話し合っても同じようなアンサーしか出せない時もあるのではと思います。お互い自尊心が高く、能力も高く、やる気も行動力もあるので、行き着く先が似て来るのではと思います。



似た人間が2人いて、気が合っていいかもしれませんが、生み出されるものに限りが出て来そうです。しかもシンタローもキンちゃんも恐らく強度のファザコンです。シンタローはファザコン兼ブラコン、キンちゃんはファザコン兼マザコンでは、煮詰まる一方になる時もなくはないだろうと思います。

シンタローは何を言っていてもマジックへの思慕が内奥にあり、キンちゃんはそういうコンプレックス(抑圧の方、劣等感ではない)を目にしても、指摘出来ないでしょう。自分もルーザー様や高松との思い出で胸が一杯だから。



グンマも抑圧されている面がないとは申しませんが、抑圧が何故苦しいかと言えば「話せば分かるはず」「こんなの本当の私達じゃない」「パパとママは自分の事を分かってくれているはず」と、いささかの希望があるからかなと思います。

もしグンマが今でもって高松、そして実父に色々期待しているならどんなにか苦しいでしょうが、グンマはそういう天城越えを、シンタローよりキンちゃんより早く終えている気がしてなりません。シンタローもキンちゃんも天城峠を越えるより、大好きなパパ(とママ)と伊東や修善寺で入浴するのを好みそうです。




■ヒカ碁は原作では佐為編、北斗杯編の2つに分かれますが、アニメだと院生の頃を飛翔編、佐為がいなくなった頃のあたりを出発編と呼んでいる様です。

どちらも内容に沿ったネーミングだと思いますが、北斗杯の頃でも、ヒカルの秀策(佐為)への思いがよく出ているので、佐為編完と記された原作の表記に少し寂しさを感じます。

作品には佐為のいるいないに左右されない、ヒカ碁らしい良さも沢山ありますが、やはり佐為がいないと、自分も広島まで佐為を探しに行ってしまいそうです。佐為にすれば広島で虎次郎と出会っていても、京都、江戸と各地で碁を打ったらしいので、もしどこかに浮遊して行ったとしても、向かう可能性のある土地は多いのでしょう。




佐為はいなくなる少し前、新幹線にヒカルと乗っています。いつのまに新幹線に普通に乗れるようになったのだろうと思いました。ワンタッチの傘に驚いていた佐為が懐かしく、新幹線の速さにワーワー言ってくれたかもしれないのに、しゅんとした佐為を見ていると切なくなりました。

分からないのは、虎次郎が亡くなっても、故人である佐為と同じ所に行かない事です。佐為は成仏できないけど、虎次郎は成仏できるという事でしょうか。虎次郎は30年くらい碁を打ち、佐為と暮らし、でも普通の人間としても充実していたろうから、迷わず行けたのだろうと思います。

結婚、就職をしていた虎次郎の側に、ずっと佐為はいたのでしょう。虎次郎が佐為を大事にしていたのは、佐為を見ていればわかります。大事にされ過ぎて、佐為は成仏する機会を逸したのかなとさえ思います。

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