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...... 2016年10月11日 の日記 ......
■ 自然主義   [ NO. 2016101101-1 ]

■長野とは、駅そばまで美味いのだと三連休中思いました。旅先で食べるものは格別としても、駅そば自体群馬県内では減少しました。昔女子高時代、思い立って下校中に駅そばを食べた記憶があります。もうその店はありません。

ブレザー姿で、蕎麦のどんぶりをすする私を同級生が見ていたそうで、後日何か言っていましたが忘れました。お金を払い屋根の下、座ってものを食べる分には、会津藩士であっても可だろうと思いました。



■そういえば私は、日本の自然主義文学を滅多に読みませんでした。センセーショナルなだけと思っていましたが、フランスの自然主義の方はゾラを多く読んでいた頃があり、荷風好きとあいまって読めるだけ読みました。

舞姫、荷風の初期作品等で、日本の初期の自然主義ものには触れていましたが、その後続作品群は手にしませんでした。好きなのは鴎外、荷風、漱石、谷崎、内田先生とくれば、自然主義ものに遠ざかるの無理ありません。漱石、鴎外、荷風と言えばむしろ自然主義を手厳しく批判した方の人達です。

自然主義が露骨だ、自分勝手だ、セックスや性道徳の乱れを面白おかしく書いて満足しているだけという指摘はかなり早く漱石はしていて、それからの代助が新聞小説を読んで不快感を示しています。

煤煙が自然主義ものだったかは分かりませんが、倫理的でない男女が駆け落ち、愛欲に従って行動するにしても、その内面が伝わってこないと言う指摘だったと思います。




日文をちゃんと勉強していないので何とも言えませんが。露骨だ自分勝手だと言うなら、鴎外他自然主義でない作家陣だって、日本で一二を争うくらいの素質があると思います。むしろ、世界的に大流行だった自然主義を積極的に国内に持ち込み、自分達のものにしようとした陣営の方が、協調性豊かなのだろうと思います。

書いてて思いましたが、「西洋から持ってきたものを国内に根付かせようとする」という行為自体、鴎外他自然主義でない人達が嫌った事です。ゾラが居酒屋を書こうとも、日本で似た様な小説を書く必要はないでしょう。

漱石が、和魂洋才などと言う言葉を一回でも信じたとは思えません。荷風もフランスの作家の苛烈さを知り嘆息しています。谷崎は何というか悪魔主義と言えば悪魔主義なのですが、活動が大衆的で、寝食を忘れて何かするタイプと言うより商売上手な男だった気がします。

漱石は私の個人主義で、行動の内発的・外発的というのを語っていました。内発的な選択は生きて来る事もあろうけれど、西洋がどうだからこうしようというのは外発的だから、いずれ滅びるだろうと言っていた気がします。




今、島崎藤村の春を読んでいます。別の作家の別の本で紹介されていたから読んでいますが、藤村の別の作品を読むのはずっと先、または読まないかもしれません。読みやすい所で千曲川のスケッチを先に読みましたが、あれは田舎滞在記的に軽く読みました。

周囲の家族や友達に優しく愛されながら、変な方向にかっとんでいく岸本と青木がよく分かりません。岸本は失恋しかけて自暴自棄になる様な年でもないだろうし、教え子の女性も「自分には婚約者がいる」の一言で全てが片付くだろうし、ただメソメソして周囲に迷惑をかける岸本の魅力とは。

もっと分からないのは青木です。妻子ある身、しかも自分で結婚を希望しておいて、日常的な幼児虐待、赤貧にもかかわらず定職に就かないあたりで、自分勝手としか言えません。妻も結婚に失敗したとしか言えませんが、青木は周囲の人間が困ろうとも悲しもうとも、気にならないのでしょう。

岸本や青木の描写は、「こんなダメ男だけどかまってね」という甘えなら兎も角。彼等が崇高であるかのように感じない場合、小説を読み進めるのが困難になるレベルです。漱石の小説でも我がままで癇癪持ちの男は大勢いますが、対抗馬の如く突っ込み役、制止役がそこそこいつもいました。岸本や青木にはいません。彼等の独善を肯定しなさいと言わんばかりに、項は続きます。

まさかこの後、新生は読みません。粗筋だけ読んで引き返しました。タイトルは美しく、書き様によってはと一瞬思いましたが多分春と傲岸さは大差ない気がします。

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