■日が落ちた後の慣れない山間部で、ワンマン運転・ディーゼルに乗るとかなり怖い事を、三連休中に知りました。乗った気がしなかったので、明くる朝引き返して乗り直しました。
まず。夜間の山間部は、車窓が当たり前ですが真っ暗です。駅名を見ても風景がイメージ出来ません。無人駅が続くので、乗降客も稀なままです。頼みの綱は運転手さんですが、ワンマンなので運転だけに集中していそうです。
そして全く聞き慣れないディーゼルの音が恐怖に代わります。同じ寂しそうな路線でも、康成の雪国のあたりの路線は電化しているので、走行音は都市部近郊の路線と大差ありません。
ディーゼルこそ鉄の神髄みたいな感じもあるらしいですが、自分は電化している方が落ち着きます。走行音というと、「聞き慣れない」一点で都内でも私鉄が乗れず、移動はJR派です。115系の走行音が好きです。
■週末は原稿でした。描いていれば時間なんてあっという間で、辛い事も忘れそうです。描き出す前は、ちゃんと漫画が描けるだろうか、描いてもコミケに落ちたらどうしよう、受かっても会場で寂しい思いをしたらどうしようと、大人気ない事を考えますが、一度筆を執ると大体忘れます。
以下は南国&PAPUWAへの雑感です。冬コミに受かっているといいなと思います。妄想がほとんどの雑感で申し訳ありません。
■南国もPAPUWAも、本来すごくシンプルな話だと思う。南国はシンタローの父親への反抗の話、PAPUWAはコタローと「家」の話であり、過程の描写は難しいかもしれないけど、テーマとしては非常に明確だったと思う。
しかしシンタローの父への反抗は、「シンタローは実はマジックの子供でも、ジャンと同一人物でも、アスでもなかった」という大混乱と、父子対決のクライマックスをキンちゃんとルーザー様(と高松)がさらっていくという、崩壊を見せた。
どうしてかなと思うけど。多分、南国の連載開始頃の「何が何でも漫画を描いて独り立ちしよう」という原作者の意欲が、外でもない「南国のヒット」で薄れたのかもしれないと自分は考えている。
シンタローの、何が何でもマジックと戦って、コタも自分も、世界も幸せにするんだという壮大な気持ちは、霧散したと言えなくない。悪の帝王だったマジックこそ、シンタローを愛する人であって、シンタローの反抗心は、むしろマジックへの愛情として浄化されたのかもしれない。なんか父子というより、逃げた恋人と、改心した男みたい。
シンタローとマジックは母親が間にいない事と、シンタローが原作者のアイコンであった事から。エディプスコンプレックスというより、娘の父親と結ばれる願望を指すと言うエレクトラコンプレックスに近いのだろうと思う。
■長くなったけど、PAPUWA雑感も。
南国のシンタローは、黒髪黒い瞳の、一族では仲間外れのような青年だったけど、二代目シンタローとも言えるリキッドには欠けている部分がない。いたって健康であり、理解ある父親や友人にも恵まれ、ハレやマーカーにも愛されている。
リキッド自身には戦う理由がない。コタを守りたいとか、島を守ろうとかいう気持ちは、単なる道徳心というか、自然愛護くらいの意欲に思える。それはそれで素晴らしいのだけど、PAPUWAという物語をして、リキッドのボランティラ話を延々読まされては困る。だって主人公はコタだから。
だが、南国のヒット、美人漫画家として名を馳せた原作者に、コタとシンクロするような薄幸な思いや、渇望は相当薄らいでいたのではと思ってしまう。不老不死、原作者好みの外見、彼を慕って周囲に集まってくる子供や動物、トシゾーの様な成人男性まで虜にし、料理が上手く家事が好き、というリキッドの描写が楽しかったのかもしれない。
南国同様、「家」「父親」と自分と言うテーマを背負ったコタの、パプワとの友情を胸にごく自然に自己を回復したという超展開は、もう兄のグンマやシンタローの干渉を必要としなかった。
あえて言っていいなら。単純にお勉強や仕事の先生、または普通に主治医として、キンちゃんと高松がコタの力になっているのではという妄想を許して欲しい。グンマもシンタローもコタについては平常心を失うので、あえてのキンちゃん(と高松)の出番が来てほしい。高松は小児科も出来るし、義務教育の講義も出来ると思う。 |
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