■大菩薩峠をまだ読んでいます。劇中ではほとんど時間が流れません。芹沢鴨が殺され、近藤勇が新選組のリーダーになる流れなんてほんの一瞬でしょう。なのに劇中ではずっと幕末が、江戸がというムードのままです。
イヌのムクでさえ年齢を重ねない様で、当時の犬ならそう長生きできない訳だけど、延々ムクは元気なままです。この小説にあるのは、時間の流れない三国志、講談もの、水滸伝的な停滞感なのかもしれません。
■南国のグンマは、本当はもっとしっかりした子なのだと思うと。何故甘ったれ?の顔をしているかと思えば、高松のためだとしか思えないのです。
自分が自立し、年相応に1人で色々出来る様になれば、一人ぼっちの高松が寂しがるだろうとグンマは思ったのかもしれません。高松が具体的に「私を一人にしないで下さい」と言った訳でなくても、グンマは賢い子だから、高松の(自分勝手な)寂しさや人恋しさに感づいたかもしれません。
高松を立てる意味で甘えん坊を続けていたら、高松と自分の前にキンちゃんが登場しました。キンちゃんは自身の子供っぽさに気がつけない方と言うか、いい意味で男の子らしい子です。
高松の本当の好みは、誰かを従えるより、誰かに従いたい方なら。やはり何も言わなくても、キンちゃんを我が主人として振る舞うでしょう。グンマは積年の我慢や孤独や、発達不全に陥った内面の行き場を失うでしょう。
本来、両目秘石眼の覇王の血を、濃厚に受け継いだグンマなのだから、自身が自身に施していた矯正に気が付いた時、悲鳴を上げたかもしれません。よく高松は無傷で隠居できたと思います。
■自分のよく乗る115系の車両が老朽化で減らされ、211系に置き換えられて来ています。全ての115系がお役御免になった訳ではないのですが、少し寂しいです。重そうに走る鋼鉄の車両が好きでした。
車両が115系から211系に代わっても。恐らくダイヤは同じです。もっと本数を増やす、より高速で駅から駅に向かう事が可能になるはずですが、しないでしょう。
この211系、のんびりした115系としている事が同じだと思うと、「余所者」という感じもしません。むしろ走行中の車両の揺れが減るだろうから、体調の良くない時には211系の方が優しいかもしれません。
■日誌っぽい事を書きます。コミケ他諸々について考えていたら、頭が沸騰しているのか、凍結しているのか、よく分からなくなりました。好んでしているストレス発散法に、効き目を感じなくなるとヤバいのだそうですが、自分はどうなのでしょう。
昔、自分の高校の卒業式でキロロが流されたので、懐かしくなりアルバムを聞いてみました。今キロロは家庭に入り、音楽活動はあまりしていないようですが、アルバムの中には、甘酸っぱい青春の色合いや、少女が大人になる高揚みたいなので一杯でした。
どうして自分が長らく、恐らく今も、ポップス?を余り聞かないの分かりました。内容がリア充過ぎて、分からないのです。歌や歌詞に共感できる程人間関係の経験がなく、ドキドキや悲しみの歌を聞いても分からないのです。
アニメなど二次元寄りの歌だと、最早淡い共感とかでなくて、それこユングやフロイトの解釈が可能になりそうなくらい、抽象的かつイメージが固定されています。どこにでもある幸せな話、というより英雄の冒険譚の様な非現実の世界です。
だから、自分はポップスが分からないまま今まで来たのだなとキロロを聞いて思い、図書館にアルバムを返しました。誰も教えてくれない世界、というか私以外の誰もが普通に楽しんでいるかもしれない世界をチラ見した重いです。 |
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