 ■書店に行ったら、店内に古いポップスが流れていました。20年くらい前の女性歌手のもので、当時自分もよく聞いていました。声の綺麗さやメロディが魅力的ですが、今になって聞くと、悲しい曲だったんだなと思いました。
外の人が聞けば全然違う歌に聞こえるかもしれません。多分、自分が疲れたまま書店に行ったのだろうと思います。
■今冬のコミケの新刊で、初めて表紙にグンマを出しました。本のテーマが「マジック父子とキンちゃんと高松」であり、仲良く寿司を食べるマジックとグンマと想像しての表紙でありました。
昔から高松は青の一族を羨んでいたと思いますが、グンマを本当のお父さんに返した後は、本格的に居場所がないなと思います。マジックとグンマ、そしてキンちゃんが仲良くお寿司を食べている時、高松が給仕以外で側にいたら自分は恐怖を覚えます。
高松の顔を見てグンマがくつろぐはずがないし、マジックもグンマの父親であるのを忘れてしまいそうです。高松は青の一族と接点が欲しくてグンマを育てたとしても、グンマの幸せを考えれは、実に不幸な選択だったと言えそうです。
本来グンマは青の一族の頂点に立つべき子だったと思います。現在はシンタローがその地位にいますが、高松への遠慮等のリミッターなしのグンマ様を一度見てみたかったです。マジックの様に恐怖政治が似合って、シンタローと同じくらい男達にモテて、キンちゃんくらい笑わないグンマ様?
■先日泊まった温泉旅館に、児童書のリンゴの木の上のおばあさんがありました。何度も読んだことのある本で、懐かしかったので手に取って読んでみました。
前半に出てくる、羽飾りがついた帽子をかぶったお祖母さんはアンディの空想の中の女性です。自分には祖母がいなくて、同級生が「大好きなおばあちゃん」の話をするのが羨ましくて、想像のなかで作ったお祖母さんです。
児童書って、軽いファンタジーと言うか、日常とファンタジーを上手くミックスさせたものが多いのかもしれません。動物が人間の言葉を話したりします。外、ガラス山の魔女たちとか、夢中になって読みました。もっとも「日常」パートも、遠い外国のレトロな生活を書いているので、日本の群馬の山奥の暮らしとは全く異なり、どっちもファンタジーでした。
子供がファンタジーに夢中になるのは、まだ子供で無力だからかもしれません。大人に近づいて、力がついてくればファンタジーとは疎遠になるのかもしれません。リンゴの木の上のお祖母さんの主人公、アンディも徐々に「万能のお祖母さん」と会わなくなっていきます。
大人がファンタジーを求める時って、どんな時でしょう。疲れている時、癒しが欲しい時、物足りない時でしょうか。なるべく自分は早急にファンタジーごっこを止めねばならないと思いつつ、やっぱりファンタジー(=二次元)が手放せない様です。
アンディは劇中で、リンゴの木の上のおばあさんは僕がいなくてもいいのだと気が付きます。隣に越してきたリュウマチのおばあさんはアンディの空想を否定しないし、アンディのお手伝いを喜んでくれます。劇中でアンディが、リンゴの木の上のおばあさんを完全に否定されないのが素敵でした。 |
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