madeingermany

[PREV] [NEXT]
...... 2017年01月20日 の日記 ......
■ アドラー   [ NO. 2017012001-1 ]

■今月中に、劇場版黒執事を見て来ようと思います。2月になったら、春コミの原稿を本格的に始めるつもりなので、今月はあれこれやり残しの無いようにしようと思っています。



■しつこく、諸葛瑾お兄様の話です。お兄様の生きる上での「選択」を恪ちゃん(※お兄様の長男、あえてこう呼ばせて下さい)は、「父親の言う事」として無視したかもしれません。実際、諸葛家の家柄を思えば、魏、呉、蜀のいずれにいようとも、ある程度まで待遇が保証されるでしょう。

漢帝国の滅びを目の当たりにしたお兄様と。呉という比較的安全な場所で過ごし、孫権からも目をかけられていた恪ちゃんでは、確かに見るもの聞くもの、全てが異なって見えそうです。



諸葛瑾という不動の父親がいるから、恪ちゃんは見えるべきものが見えなくなったと思うと、実に皮肉だと思います。お兄様は恪ちゃんに「家を滅ぼす子だ」と言ったそうです。同じ事を子敬さん(魯粛)も言われていますが、魯粛は身を誤らなかった不思議。

お兄様、孔明、子敬さんは父親が早くに亡くなっています。故に若い頃から乱世に自身の目で向き合う必要に迫られていましたが、恪ちゃんには立派なお父さんがいます。どうして父が虎と呼ばれるくらいの男なのか、恪ちゃんは考えなかったのでしょうか。

・・・下の記事につながりますが。人って、必ずしも家庭や親や環境の申し子ではないのだと、恪ちゃんを思い出して感じます。




■まだアドラーを読んでいます。アドラー心理学には、劣等生・劣等感について、トラウマは存在しない、兄弟の中での生まれた順番とその子の性質について、等有名なポイントがあります。

「人は常に目的を持って行動している」「故に、その人が置かれている状況は親のせいでも、環境のせいでもなく、その人の意思である」というのも、相当にウェイトがあろうかと思います。



今読んでいる本でウッと思った例が。

・ある学校に、不衛生で服装もどうしようもない兄弟がいた。調べると、その兄弟の家は実際そのような家だった。兄弟はしかるべくしてそのような小汚い格好なのかと思われたが、彼等の妹は、身綺麗にしており、服装も好感のもてる物であった。

故に、子供といえども環境・運命・親の支配下にあるのではない。フケツな子は、その子供がフケツである事を選択してのことである・・・みたいな例でした。




同じ両親、同じ家庭で育っても、兄弟姉妹の性格や振る舞いが異なるのはあり得る事です。ですが、家庭環境に関わらず、小汚い兄弟の妹が頑張って清潔にいたとしても、それは単なる性差ではかなろうかと思いました。

男の子なら多少汚れていても、元気ならよし。女の子は絶対に可愛くならなければ、いい所に嫁に出せないから、今から磨きこんで置く。とその家の両親は思ったのかもしれません。

または女の子はませているものだから、フケツな兄貴達に染まるのを恐れ、自主的に自分を磨いていたとか。小汚い兄弟へ批判をするための「例」だったと思いますが、単に腕白なだけかもしれない男児達が少し可哀想に思えました。

...... トラックバックURL ......
  クリップボードにコピー

...... 返信を書く ......
[コメントを書く]
タイトル:
お名前:
メール:
URL:
文字色:
コメント :
削除用PW:
投稿キー: