■三国志と言うと蜀中心の視点ですが。自分が最初に読んだ横光、陳先生のものは、曹操にもかなり項を割いています。曹操に対して「詩人だなあ」と、横山先生はコメントしていた気がします。陳先生も、曹操サイドで面白い小説を書かれています。
魏、呉、蜀の三国で三国志と言いますが。赤壁の頃は後漢末です。この時代を呼ぶ場合「魏晋南北朝時代」とも呼ぶので、三国とは?という感じもします。そして劉備達の自称は「蜀」ではなく「漢」です。あくまで劉備達が漢室を再興した格好です。劉備達の自称のスケールの大きさに感嘆すべきなのか、時代はとうに曹操達に采配を挙げていた事に気が付くべきなのか。
■アドラーに凝ってしばらくになります。納得する部分もありますが、「子供でも、大事なのは遺伝や環境、運命ではなく、その子の目的意識である」というのに、納得がいきませんでした。
自分は環境のせいで苦しいのに、なんて劣等生に仮借のない言葉だと、反感さえ感じました。先日から書いている、諸葛瑾お兄様の事を思うと、何か納得出来そうです。
恪ちゃんはあの性格を、生涯何度となくたしなめられたはずです。父親であるお兄様、孔明、周囲の陸遜や他の呉の人達も再三改める様に言ったと思います。恪ちゃんを本当の意味で反省させる機会こそなかったと思いますが、何かしらのマイナスは十分起きていたと思います。
恪ちゃんの環境、運命、家を思えば、決して悪いものではなかったと思います。受け入れてくれる国、主君、名家である諸葛家、高い地位にいる父と、それらを大事にしていれば、恪ちゃんが誤ることは無かったと思います。多分彼には、全ての「周囲」が当たり前に見えて、大事にする以前に、取っ払いたいくらいに思えたのかもしれません。
「周囲」ってそんな雑に扱っていいものではない、とお兄様は再三長男に言ったでしょう。でもお兄様が生きているうちはボロも出ませんし、本当に恐ろしいのは、恪ちゃんを止める人が誰もいなくなり、つまり、誰からも恪ちゃんが守られなくなった時でしょう。
蜀の方の諸葛家は大体質素に暮らし、晋代になって河東に帰ったそうです。慎ましいって大事な事なのかもしれません。
■アドラーの骨子の一つに。「大事なのは原因ではない、目的だ」というのがあります。他人事なら、ああそうかと思う話ですが、自分の身に置き換えてみると、つまされるばかりです。
例を出すなら。
身綺麗でない女の子がいる。家が共働きで、おこづかいが無く、配慮してくれるはずの母親も多忙で、長年汚いまま。女の子も年頃になって、「自分が汚い」事に気が付き、周囲の娘さんとの格差に気が付く
気が付いても、綺麗になるおこづかいや情報が無く、相変わらず汚いまま。が、いかに愚かな少女でも、本気になれば、そこそこの身づくろいは自分でできるはず。周囲との格差を知って、一念発起しないその娘は、怠慢でもあり、「自分にはお洒落なんて必要ない」ならまだしも、「自分はお洒落しなくても十分可愛い」とか、勘違いしているなら、もう救いようがない
なんで自分を、周囲の美しい少女達と異質にしたがるのかといえば。現実の過酷な競争に自分をおけば、自分がみじめな敗北者になることが想像出来るからに他ならない。
身綺麗でない「原因」は家庭環境にあったかもしれないけれど、その娘がだらしないまま成人し、オバサンになってもそのままなのは。娘というかその女性が「だらしなくいたい」という「目的」を抱いているから。
アドラー的に言えば、誤ったライフスタイルを選んで結構な年月になりました。 |
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