■ルザ高を妄想していて思ったのですが。基本的に怠惰で態度の大きい高松少年が、ルーザー様を慕うようになったのは、ある日勉学に目覚めて、ルーザー様のすごさが分かった後からなのか。
または。サボリの高松少年が猛勉強などし出したのは、勉学で周囲に抜きん出なければ、ルーザー様の目に留まらない事に気が付いた後ではないのかという事です。
若い高松が、ルーザー様に認めてもらいたくて勉強や仕事に燃えたのは間違いではないと思うのですが。ルーザー様恋しさが先であるなら、高松はその思いを彼に見せない様にするでしょう。
逆に、向学心や出世欲等の野心前提で高松がルーザー様にあらゆる方法で近づいたのなら、ルーザー様は後々とてもショックだろうと思います。
夏に書いてみようと思います。ルザ高の2人で延々睨み合っても解決しなくて。多分、生まれてきたキンちゃんのお世話のために、高松が育休を取って幸せそうにしているのを見た時、ルーザー様は高松の願いが何であったのか知るのだろうと思います。
■南国&PAPUWAのキンちゃんは。甘いものもそんなに食べないだろうし、謡曲はしないだろうし、酒癖はほどほどだろうし、漢詩はやらないだろうし、多分小説も俳句もやらないだろうと思います。煙草もやらないでしょう。
辛うじて、英国に縁があるのと、教壇に立つ姿が似合うのと、癇癪持ちである事が、ルーザー様の息子のキンちゃんと、夏目金之助さんの共通点かもしれません。
■行人を読んでいます。一郎の妻への仕打ち等、許しがたいものは多く、ふとした時気になる漱石のプライベートでの(色々な意味での)酷さを思うと、二度と漱石なんか読まないとも思う時がありますが、一項でも読んでしまうと漱石マジックの虜になります。
思い返すと、小学生に漱石の世界が分かったとは思えないのです。初めて自分が読んだのは猫でしたが、そのまま彼岸過迄や虞美人草、それからなどを手に届く限り読んでいました。
小学生女児に、明治のインテリ男の考えている事が分かるでしょうか。多分全く分からないまま、漱石の筆致に寄っていたのだろうと思います。相手が漱石だから言いますが、漱石の小説は内容もさることながら、その筆致も大きいと思います。(小説の内容は勧善懲悪ではなく、道徳的であるとも言い難い部分がある)
三四郎では三四郎が美禰子に見捨てられ、それからでは代助が三千代を姦通罪に引きずり落とし(心理的なものだった?)、門では事実上の姦通罪を宗助は犯しています。罪を犯した意味が、劇中で問われる事はほぼありません。代助は三千代への求愛を、むしろ自然な事だと開き直っています。
行人もある意味ひどい話です。主人公の二郎は独身で、兄嫁とふざけ合ったり、妹をからかったりして、楽しく暮らしています。しかし家運は下がり調子で、自分や妹の縁談がまとまりません。妹の重子の方は、「嫁に行けない」事に悩んでいますが、二郎はダラダラと兄が鬱病に近い事をいい事に、ますます兄嫁の直と親しく振る舞います。
結局、最終章面が行人に訪れる事はありません。一郎は最後まで精神的に参っていますし、二郎は兄嫁に(プラトニックに?)夢中、妹の重子は未婚のまま、家運が持ち直す事はありません。直も、一郎と別居したままです。
大病の中での作品なので、漱石自身に「夜明け」的なものが遠かった事もあると思いますが、なまじ未完でないだけに、眠ったままの一郎の目が覚めない事を祈ると言う、夢の様な終わりざまです。 |
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