■ルーザー様は高松に、「十分な事をしてやりたい」と思ったろうと思います。十分な事とは、高松の才能を応援する事、彼に発表の機会を与える事、自分と言う支援者がいなくなっても、科学者としてやっていけるよう兄に頼み込む事、等だったと思います。
高松はルーザー様の思いを理解したからこそ、ルーザー様の敷いたレールから降りられなかったのだろうと思います。高松を独り立ちできるよう支援するのもルーザー様の考えだったと思いますが、高松本人とすれば、ルーザー様と並走したい訳で、一人で違う路線になるなんて、嫌でたまらなかったでしょう。
高松もキンちゃんに、同じ事をしたのだろうなと思います。水泳の練習ではないですが、いつか手を離される事としても、そのタイミングを決めるのは大体指導する方です。高松はルーザー様の「何となく手を離しそう」なタイミングを読んだと思いますが、キンちゃんの場合、何と説明しても手が離された事自体に激怒しそうです。
小魚の様な貴方が、誰かを好きだなんだ言うのは100年早い、大海原を自在に泳げるようになった時、初めてその思いを私に聞かせて下さい、と高松がもし言うのならそれは傲慢でもあり、年下を好きになった男の真摯さでもあるのかなと思います。
■行人を読んで2日目になります。三部構成の作品です。最初に大阪で過ごす二郎と三沢の話。次が二郎の家族、主に兄夫婦への二郎からの観察日記的な話。最後に、精神的にどうかしてしまったらしい一郎を皆が長期旅行に出した事により、旅先からのHさんの投函による語りになります。
こころの私の語り、先生の語りの様に、本人が知り得ない事は出て来ません。同時に、本人が語りたくない事も出てこないでしょう。こころで先生がKの遺言状を読むくだりがあり、先生への恨みなどは「なかった」とあります。
しかし先生には、Kに自分はひどい事をしたのだと言う自覚があります。Kの生き様をへし折り、Kの恋を抹殺したのは先生です。Kの遺言は先生への許しでもあった訳ですが、こころのこの場面は先生の語りによるものであるため、Kの本当の内面を知る事が出来ません。
漱石のこれらの小説が、「誰かの(都合のいい)語り」である事から生まれるエネルギーを持っている以上、行人で語られる全ての事は、本当は嘘かもしれないという疑いを抱いてしまいます。 |
|