■疲れたので妄想していました。
もしキンちゃんが生まれた後、ルーザー様と高松と暮らしたら。多分ルーザー様は高松に金銭管理を全て任せそうです。高松が学生のうちは援助も兼ねて、ルーザー様が面倒見ていても。高松が成人したら、(香川出身に恥じない)立派な会計係になっていそうです。
高松は、自分はキンタロー様の世話役、ルーザー様の執事、ルーザー家の出納員くらいの寂しい認識だと思いますが。そういう(ルーザー様に対しては)出しゃばらない高松だから、ルーザー様は選んだのでしょう。
ルーザー様がサビに何々を買ってあげたとか、いちいち高松は領収を見る羽目になり、嫌になると思いますが、高松に全部見せてくれそうなのは、彼の長所ではないかと思います。
高松はルーザー様が最も愛するマジック達三者に大いに嫉妬し、苦しむでしょうが。ルーザー様が自分だけの判断で選び、育て、将来を案じたのは誰でもない高松なのだとそのうち気が付いて欲しいです。
ルザ高が実りあるものになる前に、(パラレルとして)キンちゃんが登場するので、高松はキンちゃんにあれこれ費やす事に喜びを感じ、自分の幸せどころではないと思いますが。
■キッズウィークなるものが登場しそうですが。まさか子供だけで、どこへ行けるものでなし、家におけるものでなし。親御さんも休まざるを得なく。
当然の様に職場では休んでいない他の人が頑張らざるを得ない、また休む人も相応に仕事を段取りしないとなりません。キッズウィークで仮に家族旅行に行くにしても、そんなローカルな休みに日本中の勤労者が合わせられるはずなく、観光地等も需要が読み切れないで、かえって混乱しそうです。
■漱石の持ち味は何かなと思うと、華麗な文章だろうと思います。三四郎やそれからの頃の、美しく、少し皮肉めいた文章が魅力的です。
その後の作品も素敵ですが、漱石がそれからで批評した煤煙の様な、生々しい内容を漱石自身が追う様な痛々しさを感じます。千代子に罵倒された須永が、改心して千代子の手を取る事はないでしょう。
なんで結婚後の男女が平等でなく、自由でもないのかと言えば。(当時の)女性にとって結婚とは、要は保護者が父から夫になるだけの話だからです。今までは、どこそこの令嬢として、父親の権力を背景にして、周囲の男達を睥睨していた女性が、別の男の所有物になれば、最早平等も何もありません。
三四郎、それから辺りは未婚の男女がどことなくテーマにあったので、手探りの良さがありましたが、門以降随分余裕のない小説になるなあと思います。
漱石自身の変化もあると思いますが。明暗のどうしようもならなさは、漱石が余裕派でありながら、自然主義の領域に足を踏み込んでしまった悲しさを感じます。漱石は、猫や夢十夜の様な、マンガ的な良さを含んだ小説の方が似合う気がします。 |
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