 ■作品と作家本人は別物だという概念について、考えていました。道草と漱石みたいな関係、舞姫と鴎外の関係、なら比較的分かりやすいと思います。国語の時間なら、「文明の進歩と個人の内面」みたいなテーマが出てきそうです。
分からないのは。地方の大金持ち、名家、地主階級出身だった青年達が、貧乏文士になる瞬間です。漱石は「書かねば飢える」状態だったので分かります。しかし志賀直哉や、宮沢賢治、安吾などは、金持ちも金持ちです。なんで物書きになるんだと聞きたくなります。
荷風も金融マンだったり、学校の先生だったりした時期もありますが、物書きである事は副次的な何かで、基本的に彼は生来の大金持ちです。働かなくても困らない人のする事は想像出来ません。煩悶とか生の苦しみとか、書かねばならない内面的な事情があり、書く力量があったとしても、やはり雲の上の人はいるんだなと思ってしまいます。
例えば志賀の様な、超富裕層ぶりを知ってしまうと、小説の中で読む人物達の焦りや、失敗談、成長物語を素直に読めない時があります。藤村のものを読みながら、どうしても飲み込めない所が出て来て、作品と作家は別と念じたり、色々してみましたがダメで、藤村のものは目の前にあっても全ては読んでいません。
■明暗の続編を書いたのは女性でした。続明暗の立ち位置は、あくまで漱石の明暗を基にした別個の小説なのかなと思うので、続編と言ってしまうと違うのかもしれません。
続明暗には納得させられました。漱石が好む小芝居、「夫の不貞行為」「過去の初恋」「死んでしまった愛人」等の、嫌味な部分をサラッとあく抜きして、必要な事だけ書いてあると言う感じがしました。
(サラッと書いてあるはずの彼岸過迄さえエグイ。「須永は、父親が女中に生ませた私生児だったのを、父と母の戸籍に入れただけの子供」とサラッと書いてあって、頓着しない須永も、須永の叔父もエグイ。三四郎の広田先生の出生の経緯を思い出した。)
漱石は小刀細工が好きではない、あっさりした風雅なものが好きと言う割に、昼ドラみたいドロッとしたものを好んで書いている気がします。新聞小説なので仕方なかったのかもしれません。
人は漱石を文豪と言いますが、漱石は孤高でも何でも無く、新聞小説を書いていた人です。(※当時の新聞と言うメディアの立ち位置的なものを考えないとならないので、とても難しい。漱石は自分の思想を文章にしながら、大衆が面白いと思うものも同時に書かないとならなかったはず。両方こなしたから、漱石を文豪と呼ぶのなら、自分も賛成したい。)
漱石の弟子の小宮は明暗を、「津田と清子の本当の愛の話」的な感じでとらえていたらしいです。明暗について、男性読者は「清子と津田」の不倫に至るのか至らないのかに注視する事が多いのだそうです。
続明暗でも、清子が懸命に津田をそういう意味で警戒していました。清子が津田の前で大人しいのは、恥ずかしいとか、性格ゆえではなく。津田が暴力で清子と思いを遂げようとして、清子が抵抗して逃げ切るにせよ、津田が乱暴を遂げるにせよ、清子にとって、津田と言う男性が既に気を許せない存在になっているからでしょう。
清子が言う様に、都内に妻である延子を置き去りにし、コソコソと湯河原まで、吉川夫人の差し金で来ている津田は、最低に近い男です。津田の最低ぶりにエールを送るのは、私には出来ません。離婚さえままならない延子が哀れです。津田は延子に、「お前がガタガタ言うから、俺の不倫旅行も、名分も、金の問題もダメになったんだ」と言える馬鹿な男です。 |
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