■先日からサビと高松について書いていますが、もう少し書いてみます。サビはジャンを失い、高松はルーザー様を失いました。金持ちのサビは働かない人生を選び、庶民の高松は仕事と育児に奔走する事になりました。
仮に。サビにはジャンと一緒にいた日々が十全な時間で、高松もルーザー様と過ごした時間こそが最上だとするなら。サビと高松の失ったものと、残ったものを考えたいです。
恋人の存在を失い、ただの男になった自分達が残されたのだという自覚は、サビにも高松にもあったと思います。サビと高松で違うのは、サビには生まれながらにして「青の一族」というブランドがあり、高松は何もしないでいれば本当にただの男であるという点です。
サビは大人になる事を拒み、よく言えば若い内面のまま40代に突入していきました。漱石のこころの先生の様に、よく言えばピュア、よく言わなければ「厄介者」の人生です。就職と言う「型」にはまる必要も覚えず、サビは別に冷たい飯を食う事もなく、ピュアな40代になりました。
反対に高松は。内面はルーザー様と言う心の太陽を失って、グチャグチャの滅茶苦茶です。立ち直るにしても、心の傷が癒えればルーザー様との絆みたいなのが減る気がして、耐えられません。木端微塵の内面のまま、幼いグンマを(呆然としながら)育て、医者として働いていたのでしょう。ずっとグンマが見ていた高松は、高松という形をした、液状の様なものだったのでは。
南国後サビはジャンを得ます。内面はニートのままでも、ジャンを得たサビは元気そうです。高松も南国後、キンちゃんを得ました。(サボりつつ)馬車馬の様な働きぶりは健在でも、水たまりみたいだった高松の心に、日が差してきたように思えます。
(こう書くと、グンマが見て来た高松は、何かのプラモデルのように軽くて作り物同然だったのかもしれないと思う。高松の本気は、ルーザー様とキンちゃんのみに発動するものだ。)
・漱石の虞美人草に、「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」とあります。確か甲野の言葉だったので、甲野には軽薄に見える藤尾母子へのあてつけのような言葉です。さらには、結婚だの就職だのにこだわる義母や世間に対し、「本当の事が貴方たちには分からないのだ」という批判も含んでいる様に読めます。
虞美人草はもっと単純な話です。引きこもりでニートの男性に、(時代的に)養ってもらうしかない母と妹が嫌気を我慢しきれず、お婿さんをもらって兄を追い出そうとし、漱石の「高徳さ」だかなんだかに仕返しを受け、妹が亡くなる話です。
虞美人草の本当の黒幕は、小夜子と孤堂先生を捨て、カネにつられて好きでもない藤尾との結婚に色気を出した小野さんでしょう。藤尾の婚約者同然だったのに、藤尾が「おばあさん」になるまで、みじめに独りでいさせた宗近も「いい」とは言えません。ニートの甲野の罪は、言うも憚られるくらい深いです。 |
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