■南国におけるサービスの物語は、ジャンに顔をペチンと叩かれた時に、終わったのだろうと思います。サビの物語はジャンと出会い、ジャンを失い、ジャンを取り戻した事で完結したのだろうと思います。
南国のお話は実は中盤から面白くなると思いますが、終盤までの立ち消えぶりもものすごく、唯一原作者が気合を入れただろう物語がジャンとサビなのかなと思います。シンタローの悩み、コタの怒り、グンマの孤独、キンちゃんの咆哮と、中盤で判明した物語のキモは、同人を読むか書くかして、読者自身で消化するべき運命をたどっています。
高松の物語も、大体サビの側道の様なものです。ルーザー様と出会い、ルーザー様を失い、ルーザー様の子供を陰から守り、キンちゃんが復活した後は高松にも日光が差します。
「サビと高松のお話」を書こうと思って書き出したら、何故か「キンちゃんと高松がガーデンウェディング」をしていました。舞台をマジックの屋敷の庭にしたら、いつのまにかそうなっていました。高松なので、式を挙げるなら壮麗な披露宴会場より、緑の多いお庭だよなあと内心思っていたのでしょう、サラサラと浮かんできて書いていて楽しかったです。
■鴎外のヰタ・セクスアリスを読んでいます。主人公の男の子が真っ当過ぎて困っています。当時発禁になったそうですが、表題だけ見て決めたらしいと言う伝聞が信じられるくらい、清潔な本です。
流石鴎外と言うか、異性関係でもめる事が少なかった人なのかもしれません。当時の作家で、異性関係にもめない人の方が稀有だと思いますが、鴎外の場合、頭が良過ぎて地雷を踏みにくい人なのかもしれません。例外なのはエリスで、エリスの存在が大き過ぎて、他の女性が女性に見えなかったのかなとさえ思います。
あと鴎外は、本当にエリートなんだなと思います。漱石や荷風もエリートなのですが、地の性格が強すぎて、本来所属していただろう知的エリートの座から勝手に降りています。谷崎もエリートと言えばエリートですが、金銭的にエリートである事が困難だったせいか、彼は病苦と老いと貧困を極度に嫌い、パラダイスの様な小説ばかり書きます。
鴎外が本当のエリートである証拠のように、ヰタ・セクスアリスの主人公が両親を尊敬する事、庶民では出来ない程です。彼ほど、お父様、お母様がおっしゃった・・・という口調の似あう子はいません。
ジェイン・オースティンではないですが、作家は、自分の所属する階級を中心にしてしか、作品が書けないのかもしれません。鴎外に、貧しく身分のない人を主人公にして小説を書く事は出来ないでしょう。
谷崎は自分の所属していた江戸っ子の世界や、商人の世界、どちらかというと不自由な階層を捨てて作品を書いていますが、谷崎の場合は自己嫌悪的な部分もあったのかもしれません。漱石が大阪人や京都人を書く事は出来なかっただろうし、どこまでも発想が「知識人」よりだったのは致し方ないことなのだろうと思います。 |
|