madeingermany

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...... 2018年05月27日 の日記 ......
■ 漱石の書く男と女   [ NO. 2018052701-1 ]

■「これしかない」というのは、よくある事だろうと思います。田舎の電車がそうで、1〜2時間に一本しかないので、乗れないと一日の予定が全てパーです。

親子関係程、「これしかない」の縛りがキツイものはないと思います。住居、職業等なら何とか大人になった時選べますが、誰が父なのかは選べません。

選べないから気にしないというのもありじゃないかというのも、最近思います。ドイツやフランスの憲法が立派だからと言って、今私が日本国憲法以外の統治下で住む事はちょっとありません。

世の中、「自分で選んだ妻」「自分で望んだ子供」に対しても、写るんデス並みの扱いしかしない男がいなくもないです。「これしかない」悲壮感は自分が受け身になっている時感じるものだと思うので、写ルンです並みの扱いしかしない相手を、自分は一眼レフ並みに扱う愚かさは止めました。



■漱石だけの特徴かどうか分からないのですが。先日日誌で書いたように、漱石の小説は金と男女の事しか書いていません。当時、「純愛」をうたったらしい不如帰も「国家のために戦おう」というオチがついています。流石漱石と言うか、自分の小説に、そういう「お国のため」オチをつけた事はなかったと思います。

なら、漱石の書く男女は自由に愛し合い、幸せなのかというとそうでもありません。


・「金」「性愛」「愛情」、が漱石の小説の中ではキッパリ別れて操作されている。こころの先生の奥さんは、お金に不自由なく暮らし、先生は奥さんに「清い愛」を捧げて一緒になったとされているが、性的には全く上手く行っていない夫婦である。

金と「清い思い」は捧げても、性行為は家の外で済ませて来る先生は、浮気と言うのではないかと思うが、漱石的には、金・性・愛が全く別物なので、違和感がないらしい。奥さんにすれば、余所に女でもいるんじゃないかと思うくらい、腹の立つ事である。

(こころの冒頭で先生は一人で鎌倉にいる。そういう目的の一人旅だったのではという指摘をどこかで読んで、納得した。孤閨をかこつ奥さんが痛ましい。)



・行人の二郎とお直も、「清い愛」だけの関係。三四郎と美禰子は「金」と「清い愛」の関係。この辺はまだ分かるけれど、ひどいのは、道草の健三とお住。

「金」「性愛」だけ。猫の苦沙味夫妻、漱石自身の夫婦関係もそうだったのかもしれない。明暗の津田夫妻も、「金」「性愛」はガッツリあるのに、津田のまごころみたいなのは清子のものである。女なら、男の金・性愛・清い愛、全て自分のものにしたいと思うから、お延の孤闘が終わらない。



漱石夫妻について。「あんなに子供がいたんだから、夫婦の仲が悪かったとは言えない」という人がいる。10人近い子供を作り、夫はほぼ在宅で仕事と言えば、夫婦が険悪とは思いにくいけれど、自分は違うと思う。

「金」「セックス」「真実の愛」をキッパリ分けて考える漱石において、鏡子さんに金とセックスは与えていても、「真実の愛」は与えなかったと思う。漱石の内面なんて分からないけど、須永が千代子を天使か妖精の様に崇め、社会的・性的に男女として結ばれるのを拒み続けるのを見ると、そんな気がする。

幼年時、養子先の義父の浮気で家庭が崩壊していくのを見ていた漱石らしい男女観だと思うが、「浮気」し続ける漱石を鏡子さんは詮索しなかっただろうし、たびたびの漱石の狂気を「病気」と断定していたらしい事もうなづける。

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