■昨日の日誌の内容の続きです。マーガリンはパンか何かに塗って食べるもので、乳製品を沢山食べる欧米に憧れたとしても、スプーンですくって食べるものではないと分かった竹淵は。(小学校中学年くらい)
「美味い物が食べたい」欲求が、「とにかく食べたい」に変わり手軽に買えるスナック菓子を食べすぎ、ダルマのようになりました。その後ダイエットし、食べるならいいものを食べようと誓い、今に至ります。
漱石の坊ちゃんで、清が坊ちゃんに与えた食べ物は全て美味しそうです。漱石自身はあんな優しい事されたんでしょうか。養子先は早い頃に義父の不倫で家庭崩壊、実家に帰って、義姉が御飯やお弁当の世話をしてくれるのに感動したらしいので、坊ちゃんと清の関係は創作なのかなと思います。
少年〜青年の坊ちゃんと清の関係だから、坊ちゃんが頑固で暴力的でも仕方ない面もありますが。いい大人になって男性が「女から(自分の母親の様に)懇切丁寧に大事にして赤ちゃんの様に可愛がって欲しい」とか言い出したらかなり怖いです。清は恐らく、坊ちゃんとはオムツやミルクの世話からの付き合いでしたでしょうが。
■司馬史観について私は分かりませんが。街道をゆくを読んでいると、氏が愛したモンゴルへの旅路を、心行くまで楽しんでいるのかよく分かります。
研究者や政治家か、自分の好き嫌いを前面に出した書籍なんて出したら困りますが、氏が作家だから許される事でしょう。氏の女性観は自分は好きではなく、ナイーブな事、感情的な思いなどを語る時、「婦女子の情」とわざわざ一段劣るもの断ってから書くのが好きではありません。
氏のセンスなんでしょうが。「無邪気で子供っぽい素直な成人男性」が氏の好みの様です。一方で「幼稚な男」と書く対象を斬り捨てる時もあります。「無邪気で子供っぽく素直」なのは十分「幼稚」だと思うんですが。他方、女性は大体「女と・・・は養いがたし」と言う感じで書きます。ここまで書き放題のものをして、史観とは如何。
■子供の頃。おしゃべりする人もなく、本好きが高じて何でも読んでいました。活字であれば何でもいいという発想だったので、成人向け?のものも手の届くところにあると読んだのかなと思います。(ゾーニングが甘いと言うか、30年前のアニメ等はアウトな描写が多かったかもしれない)
男女の書かれ方の酷い事ったらなかったと思います。司馬遼太郎ではないですが、時代劇風に書かれているならまだしも、成人向けのギャグ?ユニークなおっさん向けの息抜き的なものがまかり通っていました。
「女は男に、無理矢理襲われたいと切に願っている」 「女はおバカだから、賢い男が色々教えないとならない」 「女は男がいないと女ではなく、生きる意味もない」
アホかと思うようなことが、いまだに幽霊の様に、世の中に漂っているんだなと思います。私に普通の女性の事は分かりませんが、もし男性からいやな目に合されているにも関わらず微笑んでいる女性がいたなら、OKであるとかではなくて、「早くどっか行ってくれ」と思っているんじゃないかなと思います。
「きらいきらいも好きのうち」とか言うのは、本当に好きな人同士ならいいですが、昔、体を売らざるを得なかった女性達の、生きるすべみたいなものから来たのかなと思います。男を怒らしたら生活できないから、濁して逃げる方法を編み出した女性達がいたのかもしれません。
日本の民法はアホみたいに遅れていまして。特に女性の権利については、鴎外が二号さんを世話していた頃とあまり変わりません。リアルな雁、男はちょっとお金がたまれば二号さんを囲うのを当然の「たしなみ」としていた頃の感覚が、未だに日本にはあります。おっさんが中学生くらいの少女を、奉仕目的で身近に置くのが普通だったみたいな地獄。
(民法だと、シンジ(14)かミサトさん(29)と関係を持つのは違法ではないらしい。県の条例等でアウトだが、確か13歳以上で同意があればセックス可らしい。感覚が古すぎてえげつない。自分がミサトを苦手な理由の一つは、保護者が子供を束縛した上で襲うような気味の悪さを感じるから。) |
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