■コミケ前、イベント前は大体気が動転しています。入稿、搬入、ホテルの予約、新幹線の切符の購入等、出来そうな事は全部したのに、目が冴えます。こういう時余計な事をして怪我をする事が多いので、去年は伊香保へ泊まりに行き、一昨年は上越新幹線の現美に乗って来ました。今年も適当に気分転換をしています。
■シンタローの事を考えていたら、ニーチェの正午を思い出しました。詳しくないので分かりませんが、朝と夕の真ん中、何にでもなれる不思議な時間なのだろうと思います。ものというものに陰は無く、自分の足下さえ、真っ白な光に照らされる(気持ちの弱い時には耐えられない)時間です。
原作者はシンタローの立ち位置を実に複雑にし、「シンタローとは何者なのか」は、原作を何回読んでも理解出来なくなっています。あえてそうしたかもしれません、覇王を照らすのは覇王以上の光でなければならず、自分の足下さえ輝く男に、シンタロー(=原作者)をするために。
■スパーク&柴田亜美オンリーで出そうと思っている本の、ネームを描いていました。とりあえず10項くらい描いて、思い直して更に10項くらい描き足しました。
二度目に描いたネームには、ルーザー様とキンちゃんが沢山出て来ました。「楽しく描こう」と思い直して描いたら、ルーザー様とキンちゃんと高松の話になるんだと思います。まだ読んでいませんが、織田作の作品は、あらすじだけ見ると幸せそうに思えなくとも、何かこう、底光りするものがあるんだろうなと思います。
康成のものを読んでいても、どこも「幸せ」じゃないのに、しっくりくる何かがあります。無理にテンションを上げる必要もないし、「幸せ」じゃない事を嘆く必要もないのだと、文豪の文章に触れると思います。
多分、全くの素人の私が描いた場合も、同じ部分があるのかもしれません。自分が描いているものを信じること、これが出来ないと、どんなに哲学的なものを描こうとしても、倫理的に望ましいものを描こうとしても、仏作って魂入れずとなりそうです。
例えが分からないのですが。先日、きーやん、谷山紀章さんのラジオCDを聞きました。下ネタ、エロネタが半分以上のラジオなのですが、スッキリ聞けます。自分はそういうネタがダメなのだと思っているんですが、大好きなきーやんが言う事なら、全然大丈夫の様です。
上で書いたような、哲学的・倫理的な同人も全然いいと思います。ただし自分が描いていて楽しくないなら、多分人目にさらしてはいけないものになってしまう気がします。「自分のもの」になっていないものは、描いちゃ・書いちゃいけないなとマジックを書いてみて思いました。覇王の心は難しいです。
(マジックを語るなら、シンタローの誕生以降の話を書かないと手落ちなのかなと思う。しかしグンマやコタの事さえ、「シンちゃん」という彼の免罪符?が出て来て、カッと陰さえ残らないくらい照らされるので書きにくい。) |
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