 ■メグレ警視ものをいくつか読みました。一度、近隣で読めるものを一斉に読んだことがあり、どれも懐かしい作品です。「そうそう、これこれ」と安堵に浸りました。メグレは名士と呼ぶべきお大尽の立場にありますが、根っこは庶民なのが好きです。
■織田作の小説を読みだしました。まだ数項しか読んでいませんが、ドキドキします。大阪の人だそうで、文ストでは標準語でしたが、もし実物の織田作に会えたら、彼は関西弁を話すのでしょう。
■高松に親近感を抱く理由の一つに、「体を動かすのが好きでない」と言うのがあります。士官学校で既定の講義としてのスポーツすら、面倒で参加したがらない印象があります。
高松は高松として、スポーツ=健全というイメージは根強そうです。アメフト、野球、ボクシング、オリンピック全般と、黒い物が陰にありそうですが、定期的にニュースになるだけで、スポーツを根絶しようという動きにはなっていません。
好きでスポーツをするならいいし、エンタメとしてプロの競技者がいるのは全然いいと思います。しかし、「とにかくマッチョな体ありき」みたいな考えは、健全なようでいて、私はあまり好きにはなれません。
自分の実父がまさにそんな男です。「俺は体だけはしっかりしている」「俺の体は世界のなによりも大切」という、よく分からない自信に満ちています。別にそれも価値観でしょうが、あらゆる討論・話し合い・意義の問いかけをムシしての自信なので、そういう系の自信とは距離を置きたいものです。
なんでそんなに不気味な程スポーツが礼賛されるかというと。昔、校内暴力や、不良に走る若者が増加した頃、対処法として「スポーツでもさせておけ」という事になったらしいです。運動していれば疲れて不良になる余力がなくなるし、試合等で勝てば学校で褒められて満足し、いい子になると言う寸法だったそうです。
故に父の、スポーツマンな俺=世界の正義という構図がのさばっているらしいです。私は文系が好きで、運動は健康維持程度ならいいと思いますが、運動をして他人から認められようと言う考えはありません。文系の宿命と言うか、「褒められたい」「勝ち負けを争いたい」という気持ちが、私は少ない気がします。
(単に常習的な、人生のルーザーなだけなのかもしれないけど。父はそんな敗北者な娘の私が憎いらしく、彼のマッチョ人生を突き進むらしい。私はスポーツで飯を食うつもりはないし、デスクワークで飯が食えればいいと思うんだが。)
スポーツする子はいい子=本好きは根暗の役立たずと言う構図は、まだしばらく続くと思います。スポーツは礼賛しやすいものです。テレビには映りますし、どんな少人数でも、上手い下手がハッキリ見えます。別にスポーツしなくても犯罪とか起こさないから、好きにさせてくれと昔から思っています。
(スポーツする子は明るいいい子という構図があるのなら。何故、陰惨なイジメや、死に至るリンチ等がスポーツ関連の場で起きるのか説明してもらいたい。源氏物語の解釈違いで、読者同士の殺人が起きるとかは聞いた事がない。) |
|