■スパークのネームを書いていました。高松について道徳的観念とか、哲学的意味を追求しようとすると、筆が進まないことが分かりました。何度となく、「高松はグンマ様にどうあるべきか」を書くのですが、迷走して形になりません。
高松とグンマ様って、誘拐犯と幼児という関係なんだよなと思います。グンマは24年間「高松と一緒にいる」しかありませんでした。(高松を弁護するなら、ガンマ団において不惑まで生きながらえる訳ないと、彼が思っていただろうことを挙げる。ましてすり替えがマジックにばれれば、瞬殺だろうとも考えていただろう。)
高松が最も恐れていたのは、「グンマがマジックと家族として仲良くなり、マジックが自分の父親ではないかと気が付く」事だったと思います。グンマが(高松にとって)不要な情報に触れるのは、回避させたでしょう。ノリだけならマンマ・ミーアなのに、ストックホルム症候群みたいです。高松は、キンちゃんにはいくらでも外部の人との接触を勧めたり、何年か離れていても関係が壊れないのに。
■遠足や運動会ではないですが、準備と言う準備をしてしまったら、コミケへ旅立つ前は寝るしかなさそうです。スパークの準備もしていますが、10月新刊の原稿を本当に始めるのは、やはりインテ後になります。
大体こんな時期が、自分は一番危ないです。軽い所だと、ポテトチップスの大袋を何故か買い、黙々と食べだしたり。重症だと自家用車のドアに指を挟んで爪がもげたり、フラフラと花火大会に出かけて転んで病院に行ったりします。
落ち着こうとして誰かと「おしゃべり」したくとも、大体自分の口から出る言葉が信用できなくなります。人様を不愉快にさせそうです。大人しく、本を読んで寝ます。
■織田作の作品を少しだけ読みだしました。庶民の生活を生き生きと描くと言えば、谷崎、荷風、太宰達も好んで書いていると思いました。しかし皆文豪らしく、家が大金持ちで、余暇で書いていたんだろうかとつい思ってしまう所がありました。(谷崎は家が金持ちとは言い難いけれど、自分の作品を売ってお金にする事については、人後に落ちなかったと思う。)
財産と作品の良さに関係があるのかは分かりませんが、織田作が自分達庶民に近い存在だといいなと思います。詳しくありませんが、中原中也は生涯で一回も稼いだことがないとも聞きますし、清貧そうな宮沢賢治は、庶民が絶対買えない様なレコードを、趣味で買い集めていたそうです。
そして織田作がわずか33歳で亡くなった事に衝撃が隠せません。漱石ならまだ作家活動を始めていません。太宰も若くして亡くなりましたが、織田作の多作に驚かされます。無頼派は白樺派と不仲というイメージですが、織田作が日本各地の風光明媚な街々へ出かけ、自由や平等について語ったら、やはり違和感があります。
おおまかな印象ですみませんが。
漱石の世代=文豪といえども、かけもちの本業がある (鷗外とか。漱石も教師時代が長い)
芥川や内田百ケンの頃=文学が世間に認められ出したのか、専業作家が出だした?
太宰の頃=地方のお金持ちの息子達や、学習院に行く様なお坊ちゃまたちが、自己実現の場として文学を志すようになった
康成の頃=日本の作家もノーベル賞をもらう時代になった。もはや「くたばってしめえ」と言われる事もない
鴎外、漱石の頃と、文学について受け入れる側が大きく変わったのかもしれません。こんなにダイナミックな文系の世界なのに、野球やサッカーみたいな知名度も注目も集めない残念さ。 |
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