 ■織田作の青春の逆説を読みました。どこかで似た味のものを読んだと思いましたが、スタンダールだったようです。スタンダールと織田作の生きた時代の違い、フランスと日本の違い等はあるのですが、織田作はスタンダールをコピーしたわけではなく、本当に自分のものにしたんだなと思いました。
読んでいて無理を感じません。スタンダールっぽくしようと思えば、とんでもない無理が色々生じると思います。
にしても、学生時代に出来心で読んだ赤と黒が、織田作を読む時に思い出されるとは意外です。世界の「有名作」群を一度みんな読んでみようと冒険したかいがありました。織田作も赤と黒を読んでいたのだと思うと、ちょっと嬉しいです。
■以下、雑感と妄想です。康成のロリコン、谷崎の足フェチ、荷風の私娼窟通い等、文豪にしか公言が許されない様な一言で漱石を言うなら、と考えていました。
ある意味康成達以上に、漱石はフェチが強いかもしれないと思いました。むしろフェチが極めて強い事から、ごく短い期間であんなに作品を残したとも言えるのかなと思います。確固としたフェチが、漱石の小説全てに貫かれていた事を思うと、ある意味漱石暴露本でもある「漱石の家計簿」を読んでも、思ったほど自分は動じませんでした。
漱石の書いたヒロインで、独特な地位を占めるのが彼岸過迄の千代子でした。明るく活発で、未婚。須永のフィアンセであり、彼女は須永を愛し、須永の短所まで受け入れる覚悟のある女性です。
そんな千代子にとった須永の態度は、男性の風上にも置けないものでした。あんなに可愛いヒロインでさえ、漱石を父に持つと内面をむしばまれるのかと思うと、谷崎の足好きみたいに、漱石のフェチについて軽く気持ちでやじる事がためらわれます。
■以下、柴田亜美作品雑感です。
・タンバリンとかチャン5とか。劇中での死亡者の多い漫画程、中断した痛手を感じる。タンバリン序盤の、死んでしまった虎の母子や、ボニーの死が劇中で「生かされた」のかと思うと、素直に応と言い難い。
「話の盛り上げ」や「主人公達の奮起」にはなったと思うのだけど、マンガらしい広い意味での「彼等の死は無駄ではなかった」という感慨に欠ける。
そういう「主人公の奮起」等を促すための死の描写と言うと、マクロスFのミッシェルを思い出した。アルトのバジュラへの怒り、ランカの決意(?)等を浮き彫りにする回だったと思う。
ナデシコのガイの死も思い出した。ナデシコ初期の暑苦しいオトコのアニメ的なノリの代表格だったが、彼の退場のため、一気に女子キャラ中心のラブコメになって行った気がする。ガイが存在したために、アキトの中に「ラブコメ」に浸りきれない何かが生まれた気がする。
マクロスFもナデシコも、「キャラの死」が物語のその後を左右したと思う。柴田亜美作品の場合、「物語を左右」しようにも、物語そのものが尻切れトンボになってしまっては、感想も評価もうっかり出来ない。
南国&PAPUWAは違うと思いたいが、南国〜チャン5のルートの存在を思うと、実はキレイにまとまったはずの南国でさえ実は未完という恐るべき事態になる。アニメの南国を正典と見た方が心安らかかもしれない。
あやかし天馬も、凶門とか好みのキャラがいただけに、ぬらりひょんの死の後の話の尻切れ具合がものすごく、感想や評価が浮かんでくる前に、考え込んでしまう。カミヨミが最後のまとまった柴田亜美作品という事になりそうだが、あの世界は今まで重ねてきた柴田亜美作品の集大成と言うより、素直に菊理と天馬の愛の話であったと思う。
今まで未完、無駄死になりかけていた作品群の亡霊が、菊理という一人の女の子の人生によって、清められたと思えばいいのかもしれない。Content-Disposition: form-data; name="image"
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