madeingermany

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...... 2018年09月10日 の日記 ......
■ 清子   [ NO. 2018091001-1 ]

■何故柴田亜美作品では、ショタが身を張って犠牲になり、戦い、死んでしまったり、昏睡状態になったり、恋人や友人を失ったりしている中、大人のムキムキ達がショタを「(ニコニコと)見ているだけ」なのか考えていました。

一応の結論が出ました。一応柴田亜美作品が少年向けである事が多い事から、主人公がショタでショタがバトルの中心になる事が多い事と。


大人の男のムキムキ達が、原作者の「自己投影先」である事が多いため、物語の大事な所で原作者の本音が出てしまい、「女は男(この場合ショタのヒーロー)に守られるもの」「男は女のために戦うもの」という願望が出てきてしまうんだろうなと思います。

結果、物語の暇そうでおいしい所にムキムキが安置され。「男」であるコタやパプワが、可愛らしい「女」のシンタローやリキッドのために、身を張って死地に向かうんだろうなと思います。



■デスクワークで飯が食える様になりたいと、小学生くらいの頃から思っていました。大人の女とは、大人の男とセックスし、子供をもうけ、さらに上の祖父さん祖母さんの面倒までみて、その上近所の奥様旦那様、子供の学校関係者とまで良好な関係を築かないと、到底生きられないのを眼前にすると、絶望しかありませんでした。

「頑張る」としても、大人の男と付き合ってセックスして・・・というあたりでギブアップでした。少女らしく、「ママになる私」を想像しないでもなかったですが、「夫」「男」は完全にいらないと思いました。

やばい、と思った小学生の自分は「お勉強してカネにしよう、そうすれば夫はいらない」と解釈し、今に至ります。そんな、机上で稼ぐ生き方を、大好きだった祖母に認めてもらえなかったのは寂しい限りですが、祖母の御機嫌取りに生きている訳じゃなし、カネの有難味には代えられませんでした。



■疲れた、温泉に行きたいなあとこの間行った湯河原を思い出していました。7月に行ったので、温泉には結構あちこち頻繁に行っています。

不思議なのは。湯河原と言えば漱石の明暗ですが、あの津田と清子の描写を読んで、男性は「清子は自分との不倫をこいねがっている」と解釈する事があるらしい事です。

清子が湯河原に来たのは、流産した体をいたわるためだったそうです。津田の旅館の方が言うように、彼女は本当の療治目的で湯河原の名湯に来ています。津田の様
に、妻の目を盗んで昔の女性に会いに来たようなアホな目的ではありません。



清子は湯河原で何度も、「津田にも吉川夫人にももう接点なんかない」と婉曲に津田に行っています。それを津田は、「俺はこの寂しく不幸な、夫に恵まれない女に、わざわざ嬉しいサプライズを起こしてやった」くらいにしか思っていません。

婚約を解消し、すぐに他の男性と結婚したくらい、津田が好きじゃない清子は、たくみに館内にいる津田と距離を置こうとしています。狭い旅館・狭い温泉地・狭い人間関係なので、そうもいかず、アホな津田にニコニコと笑い、津田を刺激しないで遠ざける努力を彼女はしています。

女が笑う時は、必ずしもいい時ばかりじゃないと思うのは自分のうがちすぎでしょうか。

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