 ■昔言われた一番腹の立つ言葉の一つに、「竹淵にしては趣味がいいね」でした。中学の工作の時間、めいめいで工作の材料に使う布を家から持ってくる事になり、クラスメイトの一人が布を忘れたので、竹淵の買って来た布を分けてあげた時のことです。
布についてコメントしたいのなら、お世辞で結構だから「趣味がいいね」で十分な所を、「竹淵にしては〜」と微笑んで言った(偉そうな)彼女の顔は、生涯忘れないと思います。
思えば、私がダイエットに成功したらその方法を聞き出そうとしたり、数学の定期試験の点数を聞き出そうとしたり、余程竹淵について、「貴女は私より下にいなければならない」と心に決めている女性でした。
そんな人と親しくする意味はないと、普通の人は思うでしょうが、狭い田舎の世界であった事と、私がひどいコミュ症で、人間失格並に戦々恐々としていた事を挙げます。とりあえず、その後彼女にそれなりのお返しをしてから、交際らしい交際も終わりにしました。
■文ストアニメで声が三木さんのジィドを見て。狭き門と、一粒の麦もし死なずばを読みました。アニメのジィドと、フランスのアンドレ・ジィドは違うものなのだと思いつつ、狭き門を今日読み終えました。
キリスト教への理解がないと、ジィドの全部は理解出来ないと聞きます。私の感想は見当はずれになるかもしれません。狭き門のアリサは、おそ松さんの一松ではないですが、「幸せになるのが怖い」人なのかなと思います。
おそ松さんの一松は自分を卑下する事で、「幸せをつかむ事への恐怖」を回避していますが、アリサは、信仰が恋及び性愛との出会いを回避する事の、言い訳になっているのかなと思いました。
幼かったアリサが、自分の母が父をバカにして、若い軍人を愛人にして遊び呆け、散々不貞行為を娘に分かる形で働いた上に、夫と娘達を捨てて家を出て行った事を、受け止めきれなかったのは事実でしょう。事が事なので、相談する人もいなかったでしょう。
私はあんなみっともない女になりたくないという、家庭を踏みにじった母への怒りと憎しみが、アリサの信仰心をあおり、愛人と楽しそうにはしゃぐ母を非難するあまりに、自分自身の健全な「恋」まで蔑視するようになった・・・と言うのは、狭き門のねらいではないなと思いました。真面目なお話なので。
ただアリサの様な女性は、日本にもいるのではないかと思います。神様云々は分かりませんが、恋愛を楽しむ周囲が羨ましくてならないのに、恋愛という狩り場に出ていく勇気がない(出ればボコボコにされる)、私とか。
■文ストアニメを見て、織田作の作品を何作か読みました。声が諏訪部さんの織田作は、実在の織田作ではないのだと分かっていますが、いい機会だからと前向きに考え、結構読んだと思います。
小説の神様と言われ、中学校の教科書にもあった志賀直哉を堂々と指摘したのはすごい事だと思います。太宰、芥川は中高の教科書でも見た気がしますが、織田作は確か出ていなかったと思います。読んでみて、余りに文章が生々しいからかなと思いましたが、もっとえぐい作品だって国語の教科書に乗る訳で。
織田作は志賀直哉的なものを攻撃したかもしれませんが、作品を生み出すエネルギー的なものは、織田作の方がはるかに生々しかったと思います。
志賀は恐らく文章を書かなくても暮らしていける階級の男でしょう。志賀の文章は「書こうとして書けるものではない」と漱石も言います。また書けと言っても書かなそうな男です。志賀「みたいなもの」は、織田作が言い出す前から、指摘されるべき部分がありました。40歳、50歳になって、穏やかになったかもしれない織田作の文章が読んでみたかったです。 |
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