■懸念のおもひでぽろぽろを見ました。「女心」的なものがテーマだったのかなと思いますが、終始タエ子の自慢話に見えました。山形という「辺鄙な田舎」に来て、タエ子がお山の大将になっている様に思えました。
ちょいちょい挟まれる昔話も、「アタシこんなに成長したの」という、自慢に見えてしまいました。
最後、タエ子とトシオが結婚するのではないかと言う匂いで幕を下ろしますが、トシオはタエ子の突拍子もない昔話を嫌がらず聞くきらい真剣でも、タエ子に山形の暮らしは無理だろうと思いました。
何故彼女は、「自分の東京での今の暮らし」について、山形の人達にあまり話さなかったのでしょう。おばあちゃんがタエ子に「ここに残って」と最後言ってしまいますが、もしタエ子が「東京には自分の仕事と生活がある」と言えば、おばあちゃんも無理は言わなかったと思います。
タエ子が完全に旅行気分で山形に出かけたのは明白ですが、プラス、「山形の人にはアタシみたいな都会人のコトは分からないわよね」という変なプライドもあったんじゃないかなと思います。だから、存分に山形をギリギリまで満喫できたのでしょう。
■義務のように、ミスフルを読んでいます。悪い意味ではなくて、例えば登山のような使命感です。ミスフルはほんのりと、るろ剣の香りがします。鈴木先生のお人柄もエッセイコミックで垣間見ているので、非常に安心して読んでいます。今16巻まで来ました。牛尾がまた出て来ないかなと読んでいます。
■義務教育時代、スクールカーストの最底辺にいたんですが。スクールカーストと言う言葉のない時代で、自己責任と言う言葉もないのに、現象はありありとありました。
怖いのはカーストの底辺にいる事ではなく、底辺にいる事を認める事だったんだなと思います。別にスクールカーストと言うもの自体、ほんの数十人の同年代の中で起きる事なので、卒業等でサッと消滅するはずのものです。
しかし一旦カーストというものがあると、重い下層になんていた日には辛い事この上ないです。三角形ではなくて、逆三角形なので尚のこと辛いものです。その辛さを一人で解消しようとして、「受け入れる」心理が働くのかもしれません。
いじられる、無視される、笑われる事を「当然」と受けて、自分の一部にしてしまう心理もあるのかなと思います。柔道の受け身の様に有効なものではなく、「自分を笑う奴らと価値観を一体化して、もう一人の自分が本当の自分を笑う」という、複雑怪奇な心理です。
「自分は女としてダメだから、一生彼氏なんて出来ない」とか、そのたった数十人からの言葉くらいで、本当にそう思ってしまうとか。
昔、どうしても「自分はダメ人間」と言い切って、何を言っても自己肯定しない人を見つけた事がありましたが、怖い心理だなと思いました。幻のようなスクールカースト如きに、自分の今後の数十年を台無しにされてなるものかと思いました。
結局、見えないものとの戦いに疲れ。「笑われる自分」と「そんなことあるものかと奮起する自分」の間で疲弊するのかなと思います。笑った奴らは、中島みゆきの歌じゃないですが、平気で幸せに私の事を忘れて生きているのに。
自己肯定ってすごく難しいですが。漬物石のようなカーストの重みは、幻だと思う事にします。自分はまだ死ぬ時じゃないと思うので。 |
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