■漫画の神様は手塚治虫ですが。ご自身は裕福で優しい家庭に生まれたらしいのに、マンガに出て来る父子関係はドロドロのイメージがあります。七色いんこ、ブラックジャック、どろろ、アトム等、大体父子関係が悲惨です。
るろ剣の和月先生が言っていましたが。マンガにおける人間関係はコマゴマ説明するより、「家族です」というのが手早いのだとか。マンガを尋常じゃなく量産していた手塚先生ならではの「偏り」なのでしょうか。
火の鳥・未来編のロックは「親」とエライ関係になっていました。「恋人と別れさせる」レベルの干渉に始まり。戦争を選択したハレルヤに従っても地獄、反抗しようにも、抗ったままヤマトに住むのも苦痛、他の国に行っても国際問題になるだけと袋小路になっています。ハレルヤ(親)に従っても離れても、ロックの最期は自殺だったのかもしれません。
■グンマ様の小説を一個書いたのですが。だんだんこれでいいのかと思って来ました。南国にせよPAPUWAにせよ、キャラ同士の「思いやり」的なものがキーワードなのは間違いないと思います。
亜美ちゃんのマンガの傾向として。「恋愛」で話をキメルのが余り無く、「親子」の愛でシメル場合が多いのかなと思います。マジックとシンタローの「愛」で、南国とPAPUWAは話が動くので、あながち大袈裟な言い方ではないと思います。
(ただしマジックは南国のラストでコタを「押さえる」時、シンタローに「避難しなさい」と言っている。災害じゃあるまいしと思った。マジックにとってコタは永遠にお荷物なのかもしれない、存在だけあって愛がないから)
グンマと高松も疑似親子であった以上、「思いやり」的なもので、締めくくれないかなとは私でも思います。
キンちゃんと高松の場合は分かりやすく。最終的に高松はキンちゃんの何なのかと言えば、部下です。キンちゃんは高松の上に立てる男なので、高松のインテリ具合も、ヒューマンパワー的なものも、利用こそすれ、恐れる必要はありません。高松という男は「使われる」事で真価を発揮するので、むしろビシビシ使ってやった方がお互いのためです。
高松の性格上、じっと「愛される」だけでは物足らないので、そうなるのですが。散々「お仕え」した後なら、体が「自由時間が来た」と覚えるので、その後はキンちゃんと自由にすればいいと思います。
グンマ様と高松の場合。「親子」である苦味だけが残ってしまった感じがあります。今更他人にはなれないでしょうし、高松という過剰に能力が高い人材をグンマは必要としていません。お互い「もう必要じゃない」というのが、本音なのだろうと思います。
いい大人になって、ムカシお世話になった保母さんに出会うような、甘酸っぱい面倒くささはたまにだからいいのであって。日常的に古いジャムの様な味わいの感情は不要でしょう。 |
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