 ■ジブリのトトロのエンドは、エンドロールにあるように、「お母さんが退院してサツキ達と暮らし、サツキもメイも普通の生活を楽しむようになる」のだそうです。トトロの世界とサツキの世界はクロスする事はあれど、完全に重なる事はなさそうです。
おもひでぽろぽろも、山形の田舎にタエコが嫁入りする事はないとの事です。山形と言うアナザーワールド、楽園にはまり込みかけた、都会の女の述懐という所なのでしょう。
女が「楽園」を感じるのは容易でも、「楽園」をいつかは後にしないとならないというのは、うなずける話です。自分も3日も旅行して家に帰る時は憂鬱です。それがイヤなら、キキの様に「自分が見つけた場所」に噛り付くのがいいのかもしれません。ただしもうジジはただの猫になっています。
■以下、雑感です。
しつこいのですが、「オトモダチがいっぱいいる、明るい元気な子供」を量産するために、義務教育はあります。アラシヤマと竹淵が聞いたら卒倒するようなモットーですが。
マジックはルーザーやミツヤの様なタイプの青年の再来を阻止したいし、日本の先生方は「クラスの団結こそ自分の仕事」みたいな感じがある気がするので、そのモットーは執行されるしかありません。
マジックとアラシヤマの事は分かりませんが。日本だと、私が大好きな「本」までもがそのモットーの道具だったりします。「みんな仲良し」的なイメージを実現するためなら、どんな「本」でも手管になるのかもしれません。
大体日文は、当時の知識人たちの自己表現の場と言うか、「女子供が読むはずない」と文豪達は思っていたんじゃなかなと思います。女と子供を平気で苦しめる文豪は漱石以下、沢山います。「妾奉公」が公然とあった頃の事です。
それくらい、女子供に権利も地位も発言権もない時代の産物を「今」読む意味は、従属の再生産にあるのかなと思います。日文って、本当はそんなもんじゃない気がしますが。
(自分は、自分も鴎外の様なエリート学生の様な気分で日文を読んでいた。しかし自分はどう考えても、雁のお玉にもなれない女の出来そこないである事に気が付き、しばらく日文が読めない)
昨日から書いているレオ・レオニについて。仮にスイミーが日本人の大好きな「集団万歳」の話だったら、なんかおかしいと思いました。WW2を経験したヨーロッパの画家さんの「主張」が、なんで近年の日本の田舎の小学校で「使われる」のかと。
多分、レオ・レオニの言いたい事は、単純な協調性アッパレ的な話じゃないと思います。スイミーの他のレオニの絵本をちょっと読んでみましたが、結構辛辣でした。スイミーも一族皆殺しになっていますし、レオニの絵本約40冊をこれから考えるために読みます。 |
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