 ■後半、疲れるとこうなるみたいな、北伐に行く前の蜀軍みたいな文章です。なら先に、北伐について書こうと思います。
孔明って北伐に行きます。昔は正義に生きる孔明カッコイイとか思っていたのですが、今は国が疲弊しているのに何でと思います。多分、「国民」という意識の薄い時代だったので、「自分達は名ばかりの漢王朝だから、ちょっと格好だけでも失地回復してみようか」という、沽券的な話だったのかなと思います。
沽券と実利なんて到底相容れないものだと思いますが。孔明はお百姓もすれば、戦陣にも行くし、政治も行うと言う当時らしいマルチな人です。小さな蜀と言う環境が孔明に合っていたんだろうと思います。
三国志で青春の不安定期を乗り切ったので、大人になっても彼の事を好きでいられるのだろうかと思っていましたが多分好きです。
■文字が読めるようになった頃から、乱読していました。文字、本だと見れば読んでいたので、当たり外れが激しかったです。当時はまだ年齢制限の考えも甘く、どう考えても子供が読んじゃいけない方向のものも、その辺に転がっていました。
かつて中国史で神農は自ら毒草を食べて、その効能を検査したと言います。自分も死ななかっただけで、結構な毒の本を読んでいた気がします。
大体は小学校や公立の図書館がソースだったので安全な本ばかりだったのですが。そんな本もそうでない本も、「女に生まれてよかった」と思わせる本は皆無でした。まだ「男は体育、女は家庭科」とか大真面目に授業を分ける時代も同然でした。
「女は男を喜ばせてナンボ」という価値観が、はびこってました。少女漫画では「ダイスキな何々君のために、アタシ可愛くて、お料理の得意な女の子になるの」とか大真面目にやっていました。今もそうなのかもしれません。
男とは年齢問わず、自分には害だと思ってきたので、「ダイスキな何々君」を夢見る事はあっても、そんな現実を手にした事はありません。恋愛より覇道だと歴史物に夢中になるも、男尊女卑のお手本のような世界でした。
「私は女性」という事実を忘却して初めて面白がれる世界です。貂蝉とか小喬とか、どんな美人でもつまんない生涯だったんじゃないかとちょっと思います。
最近、痴漢されたら痴漢を安全ピンで刺そうという記事に対し、痴漢に対する暴行罪だとかいう反論があるそうで、頭が痛くなりました。痴漢はわいせつ罪じゃないかと。
チカン如き何でもないだろという意見がまだあるのなら、私の幼少期とあんまり日本は変っていません。どんな本でも、女は男にないがしろにされるために登場しました。かつての少年誌はみんなそうでした。今もそうでしょうか。
体も心も男性を喜ばせてナンボなら、女に生まれた事は不幸です。仏教で「女に生まれた事が罰」とか言う一節があった気がしますが、首肯してしまいます。
また、そういうつまらない人生の苦味みたいなものを、片鱗も味わわないで、協力的な生家、環境、理想的な夫と従順な息子達、及び自身の健康と莫大な財産に恵まれた、女王の様な野上弥生子には、どん底から這い上がった秀吉の良さは分からないと思います。秀吉と利休はいい小説ですが、今読むと、利休の余裕ぶっこいた所にモヤッとします。 |
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