madeingermany

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...... 2019年06月24日 の日記 ......
■ 高慢と   [ NO. 2019062401-1 ]

■グンマには、高松を手討ちにする権利と権力があるなという妄想を原稿にしました。実行すると問題が多いので、グンマの空想ですが、キンちゃんにため息交じりにもらした場合。

グンマの高松への感情がいまいち分からないキンちゃん。とりあえずグンマの言葉を逐語訳すると、テウチがキーワードらしい。シンタローにテウチについて聞くと、「晩飯が手打ちうどんになる」というどうでもいいオチになりました。



どこまでバカになれるかやってみた様な原稿ですが、キンちゃんに対し忠実な(自分の原稿の)股んGOくんは、時代劇の様なお手討ちを知っていても、キンちゃんには教えてあげないと思いました。

グンマ様に権利と権力があっても、股んGOくんは高松を失う訳に行かないので、あえてキンちゃんをシンタローの側へ誘導し、ウドンパーティーに持って行かせそうです。シンタローがキンちゃんの口からテウチと聞けば、夕飯のリクエスト以外の何物でもないでしょう。



■高慢と偏見は何で面白いのか考えていました。お話はシンプルなシンデレラストーリーです。やや貧しい地主階級の女性が、ほぼ同じ階級だけど滅茶苦茶金持ちの男性に愛され、結婚し、ついでに貧乏な自分の家族の面倒までみさせる話です。


・オースティンなのでカネと結婚の話しかしていないのだが、非常に内容がポジティブ。ベネットさんちなんて、悩みだせばきりがないはずなのに、自分の家が崖っぷちである事に誰もクヨクヨしていない。

・源氏物語もそうだけど、いわゆるお貴族様の足下には、無数の農民がある。源氏が六条院で美しい着物を女達に贈るには、農民達の汗と涙があるはずだけど、そこには触れない 小説で扱う「悲しみ」はもう少しロマンチックな方がいいからでは

高慢と偏見でエリザベスが、自分達家族の不労所得で暮らしている事に悩み、田畑を手放す・・・流れはない。ロマンスと社会学の食い合わせは難しいのでは(野上弥生子の真知子が関と別れる場面は納得だが、劇中の流れとしてはなんかボキッと折れた感じを受けた)



高慢と偏見のエリザベスの彼女らしい場面は、「自分もダーシーも地主階級である」とレディ・キャサリンに言い張る所だと思う。コリンがしている様に、ベネット家もレディ・キャサリンにへーこらするしか「生きる道」はないはずなのだけど、その辺が小説的でスカッとする。

明るく賢く、ちょっと読んでいて不安なくらい勇ましいエリザベスが出てくる高慢と偏見を読んで、どうして野上弥生子が真知子にたどり着いたのか分からない。ケッコン!!オトコ!!カネ!!というオースティンの大枠しか読んでいないんだろうか。



オースティンの場合、当時の女性に相当不利なはずの未婚と言うハンデがある。故に彼女は兄達を媒介にして社会に触れ、ひっそりと作品を書いていたと言う。

漱石の門下生の豊一郎を早々に自分のためだけに結婚させ、思うままに生きた弥生子の書く恋愛・社会小説とは?と言う結論が真知子なら、本当につぎはぎな感じを受ける。前から感じていたけど、漱石や鴎外、康成、荷風、谷崎みたいな、「これを書かないと俺は死ぬ」的な意固地さを彼女から感じない。

そんな偏屈で自滅的なエネルギーはものを書くのに要らないのだろうけれども、大昔の人間が書いたものが何故今でも面白く読めるのかと言えば、そういう燃える思いに惹かれるからだと思う。高慢と偏見も、単純なお話だけどオースティンの生き様的なものがあふれていて好き。換骨奪胎出来るもんじゃない。

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