■お友達いないんだねと思われる事を忘れて書きます。
スパーク帰りに東京駅地下のお店で、イタリアのお菓子カンリーノとスフォッリャテッラを買い、新幹線を待ちながら食べました。両方、パイ生地のなかにクリームの入ったお菓子です。
グンマでは食べられないぞとも思いながら、「こんな美味いもの食べて、キレイなものも見ているのに、全然自分の原稿に反映されないんだな」という絶望を脇に、ただ食べました。伴侶は多分上越新幹線です。
■ドストエフスキーの罪と罰を読んでいます。漱石の頃の日本人に、ロシア文学は支持されたとか聞きますが、セレブ感漂う所が、高等遊民っぽいのかなと思います。
初めてドストエフスキーを読んだのは、13歳くらいの時だったと思います。白夜でした。キレイな小説だなと思いました。余程ドストエフスキーを読みたい心境だったのか、例にもれず、人が愛する有名作を読みたいと言う、寂しさだったのか分かりません。
さて罪と罰は、どんな心境の時に読むがいいのでしょうか。主人公のセンチメンタルな部分はいいと思いますが、何せ彼は女性2人を斧で殺しています。感情移入するには厄介な青年です。
■子供の頃。喧嘩と言うかイジメ、ヒエラルキー全開の仕打ちを受けた時。
「何々したら罰金だからね」という言葉が飛び交った覚えがあります。「私の悪口を言ったら、アンタ慰謝料を払いなさい」とか、自分の身に起きた事なのか、テレビで見ただけなのか記憶が曖昧です。
学校の先生は、「子供同士、オトモダチ同士なのだから、仲良くね、お金なんて請求しちゃだめよ」とか言ったかしたんだろうと思います。
しかし、子供時代であれ、成人後であれ漱石ではないですが、大体の事はカネで解決できます。というか、カネ以外ではほとんど解決できません。
まさしくゴメンで済むなら、警察は要らないんです。何故、もっとも悪質な人間関係が横行する子供時代にこそ、現金の流通を活発化させるべきなんじゃないか・・・と思って、それはいつかカツアゲになると今思いました。
(人間関係に貴賤が出来てしまっているから、本当に「相手を傷つけたら慰謝料」というシステムがあったとしても、絶対正常に機能しない)
カネは、弱者が勝ち上がる切っ掛けになる事もあるだろうと思いますが、強者が金を握った日には地獄です。オトモダチ同士どころか、カネをもった父親にこびへつらって生きてきた私が言うんだから、間違いないと思います。
裁判で争うにせよ、最後の誠意はカネでしか示せません。別に沢山お金があるから偉いとかじゃなくて、どれだけ賢く優しい使い方が出来たかが大事です。
色々考えていると、ドストエフスキーの罪と罰になるのでこれ以上は書けません。漱石もカネにうるさい作家でしたが、そういえば殺人は書いていなかったと思いました。 |
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