■只見線と羽越本線と、奥羽本線他沢山に乗らないと、「根暗でデブで、本しか友達のいない近視の竹渕ちゃん」な、過去のデータの方が生き生きして来て、死にそうです。
別に過去と言い切れない部分もありますが、「でもあたし頑張ったわ」という、何か別の思いでコーティングしないと生きられません。
色々頑張ったから、週末好き程電車に乗れる、素敵な温泉地に好き程行ける身になったわけで。自分用のトロフィーなんだろうと思います。
過去と今のどちらの自分を信じるかは言うまでもありませんが、過去ってのは何百年経ってもポンペイの死体の様に、明瞭なものです。
■社交的で明るく、友人の多い女性は、イエスとノーをあんまりはっきりせず、好きじゃない人が目の前にいて、無為な時間を過ごしていても、ニコニコしているんだろうと思います。えらい。
・自分の場合
・そういえば、球技やちょっとしたスポーツが大の苦手だった。体育では皆当たり前のように「今日は卓球!!」と先生が言うと、皆ワッと喜んだ。
私は卓球のラケットの握り方も知らないのに。
というか点数つけも分からないのに。
もっと言うと、教えてもらってもさっぱり飲み込めないに。
優しい女子たちに「竹渕ちゃんもやらない?」と誘われても、誘った子が後悔を通り越して怒り出すくらい、「遊び」が出来なかった。
クラスの子にバカにされて、悔しいという気持ちだけが膨らんでいった。
馬鹿にされるときは、竹淵の人格全てを含めてバカにするわけで、決して「卓球が出来ないから」だけではないのだろうと思う。
「出来ないくせにやろうとしない」「教えてやってもやる気がない」「やる気がないくせに、自分達と同じ教室の空気を吸おうとするなんて死ね」等なので、卓球だけの話ではない
家に帰って泣く泣く親に「辛かった」と話してみる。
親曰く「卓球が出来ればいい」
→卓球は出来て当たり前なので、そういう面で見直されるには、インターハイとかに出ないと無理
親曰く「竹渕が卓球したくないなら、授業じゃないんだし、断ればいい」
優しい女の子達に「卓球しない」、とノーを言ったら、「断るならちゃんと理由を言って断るとか、断り方もある。断るってだけいう法はない。」と、ある意味ちゃんと怒られました。
卓球他ちょっとした遊びって、必要不可欠なコミュニケーションスキルなので、そこに脈絡もなくノーとは言ってはいけません。親も、「断り方」まで教えてくれればよかったのにと思いました。
「本が読みたいから卓球しない」と断った時も、「本ばかり読んじゃダメ」等、断る方法も、バカにされない賢い方法もありませんでした。
なんで竹渕以外の人間は、怒られも、バカにもされないで生きられるのでしょう。私はイエスもノーも言えない、しかも他人のイエスとノーのサインも分かりません。上記の賢い女性になりたいと思いながら、何十年も経ちました。 |
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