■ブッデンブローク家の人々を読んでいます。日本で言うと、八幡製鉄所の出来た頃の出版です。マンの若い頃の作品ですが、とても風格のある作品です。
渋いんですが、今読んでいる離婚後のトーニの振る舞いなど、ありえないくらい陽気です。マンらしいというか、大戦前のドイツってこんなだったのかなと思います。鴎外の舞姫は、もうちょっと前のドイツになると思います。
(WW1後の多額の賠償金等、激動の時代が来る。マンはドイツ帝政を知っている世代になる。ブッデン〜はヴィルヘルム2世時代になる。)
■雑感です。
小説と言うか京涼を書いていて思ったんですが。
・よくある「彼のひたむきな所に愛情を覚えた」「彼女の真面目さに心を打たれた」とかって、ある程度相手に愛情や関心がないと、そもそも抱かない感情なのでは。
病気等で苦しんでいる相手に優しくしたりするのも、余程の優しい人でないなら、「苦しんでいる」だけの相手に出来ることって常識の範囲なのではと。
(例えるなら)啓介はそもそも
・美青年(高身長、高橋家らしい美貌、手足長い) ・金持ち(しかも大体の責任はアニキ持ち) ・明るい性格(感性とか何で信じられるんだろう)
等で、常人では考えられないくらいの下駄履いて生まれてきた訳で。爽やか美女が根暗ブスよりいい思いして生涯を送るのと同じで、スラッとしたモデル体型等により、無駄に「歪まない」まま育ったことは必至
自己肯定感爆上がりの人生
貧乏でブサイクでモテない男とは、生きる階層の違う人生。そもそもサッとFD&宮口さんのあるカーライフって。
拓海も、自己肯定感たっぷりの人生
(家は普通だとしても、躊躇なく御木先輩をボコボコにしたイメージから自分の拓海のイメージが動かない。そりゃあ御木先輩、拓海キライかも)
自己肯定感の低い人は、他人の倍頑張ろうとも、いわゆる少女漫画や少年漫画に出て来そうなくらい、熱い気持ちだの、努力だの掲げても得られるものはごくわずか
若いうちは「頑張ろう、いつか啓介や拓海に自分もなれる」とか思うとしても。ふと我に返る日が来るわけで。なら、小さな幸せとか、敗北者の(よさげな)人生とか模索したくなるわけで。
多分、啓介や拓海の様に「自分の感性、感覚」をどこまでも信じることのできない、頭でっかちの涼介には、自分の走り屋としての限界が分かっていたのではないかと思う。
レーサーなんてクレイジー(誉め言葉)に飛び込めない人間だと、涼介は分かっていたのかも。同じような「頭でっかち」の人と、静かに愛を育めばいいじゃんと思う ------WebKitFormBoundaryf3LwZNNBwCXLe5fs Content-Disposition: form-data; name="image"
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